新納忠元勲功記
天正六年十月~十一月十二日 / 冊子 553~554頁
大友宗麟が伊東氏を案内に高城を攻め、島津義久軍が十一月十二日に大友軍を破った際、新納忠元は球磨境の警固で参陣せず、嫡子忠実を送った。球磨勢が大口をうかがうため、忠元は義虎・忠実・伊地知重康と計り山野に伏兵を置き、自ら囮となって早牟田城之介を誘い込み、主従七人を討ち取った。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
12 件 (全巻)/ 1–12件を表示
ページ 1 / 1
天正六年十月~十一月十二日 / 冊子 553~554頁
大友宗麟が伊東氏を案内に高城を攻め、島津義久軍が十一月十二日に大友軍を破った際、新納忠元は球磨境の警固で参陣せず、嫡子忠実を送った。球磨勢が大口をうかがうため、忠元は義虎・忠実・伊地知重康と計り山野に伏兵を置き、自ら囮となって早牟田城之介を誘い込み、主従七人を討ち取った。
天正六年十月 / 冊子 554頁
伊地知重範が十六歳で初具足し、新納忠元が山野と球磨の境の深下で早牟田城之介を計略により討った戦いに参加した自記。重範は城之介の郎等に後ろから腰を斬られたが、新納忠実・伊地知重康らが伏兵から起こって主従七人を討ち、重範は褒美として飾りと兼光の刀を拝領した。
寛永十年二月十日 / 冊子 353~354頁
猿渡城之介・時任右京亮が本田与八郎へ出銀の皆済を認めた連署請取状。高百五十四石九斗六升を基礎に、米・鳥目の銀換算を記し、銀二百三十二匁四分四厘を受領した。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 197~198頁
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、前年預けた大鷹は見事だが扱いにくいと聞いたため、当年の若鷹または前年の若い大鷹の手配を法賀へ命じるよう依頼した書状。龍伯は不食が続き、二月二十四日夜から急に重く患ったが、養生と祈念・立願を尽くして次第に回復したと報告する。さらに醍醐の花見に際し、女房衆へ一人につき小袖三つ・帯三筋など華美な装束が命じられ、「御用意千三百」とあるため京中の細工人が多忙であること、見物は女房衆が行い、京中の男は三~四里四方から退けられると伝える。
寛永二十年正月二十二日 / 冊子 104頁/原整理番号 11-4
下代の山内侍左衛門尉・桑幡城之介が吉松などの曖衆へ、飯野上江村の井手溝普請について三原重庸、殿役奉行、代官からの書付を届け、飯野衆の指定する日限に従うよう伝える。
(明暦元年)十二月十一日 / 冊子 268~269頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0589
島津久茂・鎌田政有が国元家老へ、中村城之介を歳暮祝儀の使者として召し下したこと、光久の熱海湯治中の対面や供回り、川越新左衛門ら使者の取扱い、江戸・国元間の連絡について口上形式で伝えた文書。
年月日未詳 / 冊子 415~417頁/原整理番号 380
「天草立衆」として出兵者の氏名を列記し、鉄砲・鑓(やり)・弓・鉄放などの武器種や、談合衆・印の記載を各人に添えた人数書上。国分佐左衛門・平峯郷兵衛・濱田右京丸から、荒武丹波守・神崎左近允・稲留藤右衛門・篠原城之介まで名簿が続く。郷別人数の集計ではなく個人名と武器種・付記の対応を記す。
年月日未詳 / 冊子 380~383頁/原整理番号 351
天草へ出陣する薩摩方の軍衆を、鉄砲・弓・槍・談合衆などの役割別に多数列挙した交名である。清水郷士浜田早太所蔵本を正文とし、寛永十四年十一月二十一日から二十四日にかけた軍勢動員を示す。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 670~677頁/原整理番号 683
島原へ向かう軍衆が飯米を受け取るために提出した人数差出を写し留めた帳簿。諸士・各地域衆ごとに主従、人躰、夫丸、小者等の人数と正月の出発・米津などへの到着日を記し、飯米渡しの根拠とする。末尾では不足者や指出のない者、張紙に記した有馬在陣の外城衆を含めて集計し、合人数三千百六十八人を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
寛永二十年二月四日 / 冊子 104~105頁/原整理番号 12
山内侍左衛門尉・桑幡城之介が、飯野上江村の井手普請を翌五日から始めると加久藤・吉松などの曖衆へ知らせる。普請夫一人一日赤米五合、普請奉行には真米七合五勺を渡すとし、必要人数の手配を急がせる。