樺山久高書状
(慶長十四年)四月五日 / 冊子 216~217頁
四月五日、樺山久高が喜入久正に、琉球王が王城を下り降伏したこと、王以下の有力者を人質として渡海させる旨を申し渡したこと、都島・久米島への人衆派遣の可否、翌月の帰登見込みを報告した書状。
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(慶長十四年)四月五日 / 冊子 216~217頁
四月五日、樺山久高が喜入久正に、琉球王が王城を下り降伏したこと、王以下の有力者を人質として渡海させる旨を申し渡したこと、都島・久米島への人衆派遣の可否、翌月の帰登見込みを報告した書状。
(寛永八年)十月朔日 / 冊子 237頁
久しぶりに対談できたことを喜び、寒中の養生を怠らないよう勧める。江戸に置いてある『古今集』『伊勢物語』の切紙について、必要なものを書き付けて知らせれば、後日その地へ出向いて直接伝授すると約した島津家久の書状。
八月六日 / 冊子 378頁
毎年の例により八月二十五日に萩原天神で法楽連歌があるため、萩を題とする発句を書き送り、遠慮なく意見を述べ、皆で入念に見分して良ければ点を付けるよう求めた島津家久書状。
慶長十四年三月十五日 / 冊子 209~210頁
慶長十四年三月十五日、喜入久正ら三名が宮内最雲寺に寄進した薬師免の目録。内山田村内の屋敷・田畠を所在地、反別、石高とともに列記する。
慶長十五年九月朔日 / 冊子 292頁
慶長十五年九月朔日、喜入久正・本田正親が連署し、正八幡宮の拝殿へ経筵十帖を寄進したことを証する寄進状。恒例ではないため、後証として墨付を作成した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 308頁
島津義弘(惟新)と喜入久正らによる島津義久追悼歌。義久を文武の車の両輪・鳥の双翼のように備わった名君と称え、九州統一に迫った威徳、民への慈愛、死後の深い悲嘆を和歌に詠む。
九月十八日 / 冊子 47頁
平田宗親と喜入久正が、新田宮への社参や鹿児島方への連絡などについて連署した書状。現地の扱いは旧冬の申し付けを維持し、内々の書札を用いること、名の処置については五大村の希望に応じて行う方針を伝える。
慶長十三年十二月廿四日 / 冊子 199頁
慶長十三年十二月二十四日、日向国大崎今田村内の浮免三十石を、渡海時の軍役と高麗退治での働きに対する加増として児玉四郎兵衛尉へ配分した連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 199頁
児玉筑後譜の記事。慶長十三年、児玉四郎兵衛尉が軍功によって十二月二十四日に大崎今田村内三十石を与えられ、喜入久正・平田宗親・山田理安から知行目録を受けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 554頁
肥前名護屋で徳川家康が大病を患った際、島津義久が秘蔵の薬と処方を提供し、典薬らの診療を助けたという記事。 家康は薬を服用して回復し、義久に謝意を示したとされ、朝鮮出兵の本営で生じた大名間の医療交流を伝える珍しい逸話。
慶長十二年五月十七日 / 冊子 116頁
慶長十二年五月十七日、隅州桑原郡内の寺領として、見次村内の皮籠屋敷一か所、高二十石を定めた三名連署寺領目録。
年月日未詳 / 冊子 296頁
寛永九年七月十八日、島津家久が五月十八日に没した喜入大炊久正入道紹嘉の生前の忠貞を偲び、その忌日に六字名号を冠した三十一文字の和歌を詠み、冥福を祈ったことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 760~761頁
喜入忠道の後嗣久正を祖とする支流系図。川上久光の長男久正が忠道家を継ぎ、島津義久隠居時に家老となり財部・国府地頭を務めたこと、久洪・久憲・久信以下の御使役・用人・地頭職と養子関係を記す。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
(寛永九年)七月十八日 / 冊子 296~297頁
島津家久が、忠勤と和歌を好んだ喜入大炊入道紹嘉の死を悼み、阿弥陀の六字名号を各歌の句頭に置いて六首を連ねた詠草。花・夕霞・子規・有明の月・忍草・白雪などを用い、紹嘉の面影と後世の冥福を詠む。
元和八年七月十二日 / 冊子 69~70頁/原整理番号 23
島津家久が下野守久元へ、虎寿丸光久を国分の子として迎えることを持明様が喜んだと伝え、翌月の吉日に国分へ移して祝儀を行うと通知する。詳細は喜入摂津守と伊勢兵部少輔から伝えるとする元和八年七月十二日付書状。
巻六/冊子 84~86頁
忠恒が伏見の茶亭で伊集院忠棟を自ら討ち、その子久真(久詮)が都城を中心に反乱した庄内の乱を記す。忠棟は秀吉から薩隅日三州内八万石を与えられて権勢を誇り、主家を凌ぐ陰謀があると見なされた。忠恒は忠棟を斬るが、太閤朱印を受けた者への私刑であったため高雄山で罪を待ち、家康・五大老の裁定で許される。久真は財部・安永・山田・志和池・梅北など都城周辺の要害に籠り、忠恒軍は山田城を本陣として攻める。家康は早期成敗を促す一方、兵を損なわぬよう命じ、山田城攻略を賞した。慶長五年、山口直友の仲介によって忠恒・義久が起請文を出し、久真の奉公復帰と将来の公正な処置を誓う。三月に降伏して乱は終結し、家康もこれを認めたが、記事は久真を帖佐、母を阿多に置き、なお反逆の危険が残ると評する。主従内部の権力闘争が徳川家康の調停下で収束する過程を示す。
(寛永九年)七月廿六日 / 冊子 298~299頁
島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広改易後の熊本城受渡しと上使到着、相良・加藤右馬頭・大口・山野・出水・綾・高岡等からの注進を確認し、早打への礼を命じた。また肥後へ向かう諸勢への兵糧米貸与、山川・頴娃方面に着岸した唐船への対応、喜入久正没後の国分地頭職と喜入久右衛門尉の鹿児島移転などを指示した連署書状。
慶長~元和年間 / 冊子 66~67頁/原整理番号 20
旧伝集から、寛陽院光久と弟兵庫頭忠朗の誕生順と世継の公表時期、光久が国分の持明様を養母とした経緯を引く。季安は六歳まで世継が定まらなかったとの伝承と元和八年の養子・世継の二説を照合し、伊勢貞昌・喜入久正らの周旋を考える。