島津義弘譜
年月日未詳 / 冊子 130~131頁
『島津義弘譜』から、義弘・忠恒らが南原城北側の松原大山に陣し、各隊とともに城を攻めた経過を記す。島津勢の横撃、首級四百二十一をはじめとする戦果、敵の自刎・降伏、日本側の損害と城中の混乱を具体的に掲げる。
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年月日未詳 / 冊子 130~131頁
『島津義弘譜』から、義弘・忠恒らが南原城北側の松原大山に陣し、各隊とともに城を攻めた経過を記す。島津勢の横撃、首級四百二十一をはじめとする戦果、敵の自刎・降伏、日本側の損害と城中の混乱を具体的に掲げる。
年月日未詳 / 冊子 132頁
南原城の城郭・門・周辺地形を描き、日本軍諸隊の配置と攻撃方向を示した攻城図。島津義弘・忠恒ら諸将の陣所、進路、城を囲む山・川などを図示し、南原城攻略時の布陣を一覧できる。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 70頁
島津忠長譜のうち、日本軍諸将が南原城攻略を計画し、島津忠恒らの軍勢が朝鮮へ進発して攻城に加わるまでを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 71~75頁
大重平六が、南原城の攻撃と落城後の追撃、江南方面への転戦、各地の戦闘や水軍との交戦を回想した覚書。諸将の働き、死傷者、軍船・兵糧の確保、戦功への褒賞までを具体的に記す。
年月日未詳 / 冊子 125~126頁
『征韓偉略』から、日本軍が三道に分かれて南原へ向かい、宇喜多秀家を将とし、小西行長を先鋒、島津義弘らを諸隊に配したことを記す。南原城を守る明将楊元らとの攻防、兵数、包囲と攻略準備を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 126頁
『征韓偉略』から、二十五日夜、日本軍が矢・鉄砲を放って南原城を包囲し、月明かりを利用して攻めた経過を記す記事。明将楊元が防戦しながら城を脱出し、日本軍が城内へ突入して明・朝鮮兵四千余を討ったとする。
年月日未詳 / 冊子 129~130頁
『島津義弘譜』から、明軍の再編と日本軍の全羅道進攻を記す。南原城攻略のため日本諸将が軍を分けて進み、明将楊元らの守備軍と交戦して城を陥れ、さらに全州・黄石山方面へ進んだ経過、敵味方の損害と戦功を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 131頁
『島津家久譜』から、義弘・忠恒ら日本諸将が全羅道へ進み、左右の軍に分かれて南原城を包囲した経過を記す。八月十五日夜の総攻撃で城を陥れ、明将楊元が逃れたこと、敵兵の討取りと日本軍の北進までを叙述する。
年月日未詳 / 冊子 131頁
『島津以久譜』から、慶長二年八月、義弘・忠恒ら日本諸将が南原城を攻撃して守備軍を破り、同城を占領したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 131~132頁
『島津豊久譜』から、八月十五日の南原城攻めで豊久が敵陣へ攻め入り、首級十三を得た戦功を記す。家臣の戦死にも触れ、翌十六日に首級を日本へ送り、秀吉から賞賛を受けたとする。
年月日未詳 / 冊子 132頁
『樺山久高譜』の項目名のみを掲げる。独立した本文はなく、直後のNo.295「南原城攻図」に接して配置されている。
年月日未詳 / 冊子 133頁
『北郷三久譜』から、秀吉の朝鮮出兵命令により北郷三久が軍代として兵を率い、義弘・忠恒らと南原城攻略に参加した記事。八月十五日夜の攻城で戦功を挙げたことを記す。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 136頁
豊臣秀吉が八月十六日付の注進を披見し、南原城を十三日に包囲して十五日夜に落城させ、島津義弘勢が首級四百二十一を得た戦功を賞した朱印状。先の番船捕獲にも触れ、今後も諸将と相談して堅固に軍務を進めるよう命じる。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 136頁
豊臣秀吉が島津豊久の八月十六日付注進を披見し、南原城攻めで首級十三を得たことと、先の番船捕獲を賞した朱印状。引き続き諸将と協議し、確実に軍務を遂行するよう求める。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 136~137頁
増田長盛・長束正家が、義弘・忠恒の南原城攻略の注進を秀吉へ披露し、城を即時に攻め落として首級目録を届けた働きが高く評価されたと伝えた連署状。全州方面へ進軍したとの報を受け、続報を待つと述べる。
巻五/冊子 73~77頁
慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲すると、義弘は久保を失った経験から忠恒に血気の勇を戒めるが、自ら三首を得たことで忠恒も単騎で城へ突入し、敵が退いた後に戻る。島津勢は首四百二十一を得て鼻を切り、日本へ捷報とともに送ったとされ、秀吉から再び賞状を受ける。その後、父子は泗川の旧館城・新城へ移る。後半には秀吉政権の在番・講和方針を示す朱印状、諸城から釜山浦へ兵粮・鉄砲・玉薬を集める命令、朝鮮王子や貢物を条件とする撤兵案、徳永寿昌・宮木長次の起請文などを収める。海戦・南原攻略の武功と、戦争終結を見据えた講和・撤兵の実務が併記された記事である。
慶長四年六月上澣 / 冊子 388~389頁
島津義弘・忠恒が、慶長二年八月十五日の南原表と同年十月朔日の泗川表で討ち取られた明軍、ならびに海陸で戦死・病死した敵味方の軍兵を等しく仏道へ入れるため建立した供養碑文である。南原では島津勢の討取四百二十人、泗川では大明軍八万余の敗亡を記し、度重なる朝鮮の戦場での死者を弔う。