福崎久重・北原氏純連署誓文
応永十年三月廿一日 / 冊子 208頁
福崎久重と北原氏純が、預かった金・唐物・衣服等を管理し、公的な求めがあれば両人で誓約のうえ返却し、本人に不慮がある場合は後継者が履行することを連署して誓った文書。
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応永十年三月廿一日 / 冊子 208頁
福崎久重と北原氏純が、預かった金・唐物・衣服等を管理し、公的な求めがあれば両人で誓約のうえ返却し、本人に不慮がある場合は後継者が履行することを連署して誓った文書。
年月日未詳 / 冊子 158頁
島津元久譜として、相良祐頼と北原氏が徳満城で争い相討ちとなったため両氏が対立し、北原氏の子が元久に援助を求め、元久が軍勢を派遣して相良勢を退け、隕幸一院を北原領とした経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 208頁
島津恕翁譜の記事として、福崎久重・北原氏純の連署誓文(No.701)を掲げ、その作成・提出関係を記録する。主文はNo.701に対応するため、重複する細部は避けて整理した。
年月日未詳 / 冊子 483~484頁
文明七年に行われた犬追物を起点として、伊作久逸・新納忠続ら島津一族の動向を記す。高城をめぐる北原氏・相良氏との抗争、諸勢の出陣と城郭支配の変化を追い、武家儀礼の開催と並行して家中・国衆間の軍事的緊張が高まった情勢をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 670~671頁
大永六年霜月二十八日の宮内社頭焼失後、加治木の統治が絶えたため、新たな領地・守備配分を行った経過を記す樺山玄佐自記。新納・北郷・吉松・本田・北原氏らに拠点防衛を分担させ、横川や越前守領などを処置した。火災を契機に島津勝久方が地域支配を再編した具体策を示す。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁
北郷忠相が伊東義祐・北原氏による高城攻略計画を察知し、周辺諸城の守備を強化した合戦記事。敵軍の攻撃を城兵と援軍で撃退し、退却する伊東・北原勢を追撃して北之石山城の防備を突破した経過を記し、忠相方の情報収集と反撃の成功を伝える。
年月日未詳 / 冊子 738頁
天文四年十一月二十九日、北原氏が領する志和池へ兵二百人を遣わして城下町を攻め、敵首百五十を得たとする戦闘記事。
年月日未詳 / 冊子 738頁
天文四年十一月二十九日、北郷忠相が北原氏領の志和池城下町を破り、首五、生捕百五十人を得たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 749頁
天文五年夏、勝久が真幸へ移り、北原氏を頼って般若寺に数年間滞在した後、庄内へ移ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 749頁
天文五年夏、島津勝久が真幸へ移って北原氏を頼り、般若寺に数年居住したのち庄内へ移ったことを記す。前文と異同がある旨を注記する。
年月日未詳 / 冊子 794~795頁
北原氏と伊東氏が高城攻略を企てたため、北郷忠相方が勝岡・梶山・山之口へ軍を展開した合戦記事。北郷久利ら諸将の配置、城兵の反撃、敵勢との突撃戦、双方の討死者を記し、高城を守るため複数の口・城を連動させた防衛戦と軍功を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 799~800頁
天文十一年春、北原氏が本田氏討伐を図る一方、島津忠良・貴久方が生別府へ進軍した経過を記す。樺山玄佐・善久らが北原方と戦い、城を攻めたが、大雨で軍勢・兵糧の維持が困難となり、攻撃を中止して撤収した戦況を追う。
年月日未詳 / 冊子 809~810頁
天文十二年正月二十四日、北郷忠相が伊東方の守る山田城を攻め、北原氏の旧領回復を図った戦いを記す。出陣前に霧島へ戦勝を祈誓し、白坂左衛門尉・釘村伊豫守らを配して城を包囲・攻略し、城主らを退けて山田城の支配を回復した。
年月日未詳 / 冊子 810頁
北原氏の旧領であった山田城を、北郷忠相方が包囲して伊東勢から奪取した経過を記す。白坂左衛門尉・釘村伊豫守らが城の守備・攻撃に当たり、周囲を封鎖しながら城兵を攻め、援軍を防いで攻略した。城の旧支配と新たな帰属を併せて示す。
年月日未詳 / 冊子 862~863頁
『庄内平治記』が、本田董親が北原氏を介して勢力回復を図ったことから、北郷忠相・伊集院忠朗らとの対立が深まる経過を記す。清水・姫木方面で諸勢が出陣し、城と周辺拠点をめぐる交渉が合戦へ転じた背景と双方の動向をまとめる。
弘治三年十一月廿二日 / 冊子 54頁
日向国真幸院飯野村の剣大明神の由来を記す。不動明王を本地として精舎・拝殿を建立し、毎年十一月二十二日に祭礼を行い、月三回の市を開いたこと、北原氏民部少輔の武運・家門繁栄・領内安全を祈る。
六月廿六日 / 冊子 204頁
北郷某が、八代長門守に関する照会へ答えた書状。天文元年十一月七日、島津豊後守・北原氏・北郷讃岐守忠相の三家が高城へ向かって合戦し、長門守以下伊東一門と雑兵三百八十人余を討ち取ったとの伝承を報告する。
年月日未詳 / 冊子 271~272頁
島津忠国と父子の不和、立久の奥州敗走、守護職をめぐる用久らの動向、伊東・和田・北原氏などとの戦闘、所領・城郭をめぐる争いを記した島津立久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 67頁
伊東・北原・相良氏らの凶徒が都城周辺へ攻め寄せたため、新納実久が救援に向かい、応安六年三月一日の戦闘で軍功を挙げた経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 156~157頁
応永二年の島津元久をめぐる政治・軍事情勢を記す国史記事。福昌寺領の設定を起点に、波見太郎、渋谷・北原・相良・本田諸氏、今川了俊との関係を述べ、梶山城・高城周辺の攻防、鹿児島と各城地・所領の支配が変化した長期的経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 279~280頁
応永二十年、樺山教宗への宮崎郡旧領安堵を起点に、伊集院頼久・渋谷氏らをめぐる緊張を記す国史記事。清水城・東福寺城周辺で戦闘が起こり、佐多・北原・新納など諸勢力が出兵・加勢した。所領安堵が地域対立と城郭戦へ展開した経過を編年で示す。
年月日未詳 / 冊子 631~632頁
樺山長久一族が外敵の脅威と所領問題を避けるため、北原・伊東氏の領域へ移住した経緯を記す。樺山宗栄・島津忠兼らとの関係、野野三谷などで認められた居住・知行、旧領と新所領の処理を追い、主家・地域を移った一族の生存と所領継承を示す。
(大永三年)六月廿日 / 冊子 643頁
島津忠朝が臼杵長景らに、庄内の争いと伊東尹祐の調停、山田・野々美谷をめぐる処置を述べ、引き続き仲介を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 646頁
樺山氏代々の居城だった野々美谷城を北郷忠相が領し、大永三年十一月に伊東・北原勢の攻撃を受けた経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 646~647頁
北郷忠相の領地となった野々美谷城を伊東尹祐・北原方が攻撃した経過を記す。守兵は城に籠もって射撃戦を続けたが、援軍が届かず兵糧も欠乏し、包囲の長期化で抗戦が困難となって落城した。城の帰属変化と庄内周辺の勢力争いを具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 647頁
大永三年十一月八日、北郷右衛門尉尚久が野々美谷城をめぐる伊東・北原勢との戦いで討死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 649~650頁
『庄内平治記』が、北郷忠相と伊東尹祐・北原勢の対立を軸に、新納氏・本田氏を含む諸勢の動きを記す。庄内周辺の城攻め、援兵の動員、籠城側の兵糧欠乏、退却する敵への追撃を追い、複数の城と街道をめぐる戦況の変化をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 684~685頁
樺山信久が島津勝久の御座へ奉仕し、加治木・鹿児島方面の戦闘に関わった経過を玄佐が記す。村田越前守ら家臣の処遇を調整し、島津忠良方との関係を踏まえて、新納・本田・北原諸家の所領と帰属を再編した政治・軍事上の対応を伝える。
年月日未詳 / 冊子 685頁
戦後に美濃守が出家し、新納・本田・北原らの所領や正宮社家の処置が進められたものの、諸家の境界がなお不通であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 710頁
天文元年前後の高城をめぐる島津忠朝・忠相方と伊東・北原・祁答院・本田諸氏の争いをまとめた国史記事。各氏の系譜を参照しながら、城の守備、援軍の派遣、攻撃と退却を追い、日向・大隅境界で複数勢力が結び付きと対立を変えた経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁
天文元年、世情が不穏となるなか、島津忠良・貴久方と伊東・北原方が高城をめぐって対立した経過を記す。樺山信久・北郷忠相・島津忠朝らが城郭と交通路を確保し、敵方の進出を防ぎながら攻防を進めた。高城支配が諸勢力の同盟関係を左右したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 733頁
天文四年八月十四日、北郷忠相が新納領末吉・松山・梅北方面へ出軍し、伊東・北原方の援助勢力を攻め、各所を焼き払った戦闘を記す。
「天文五年」七月廿五日 / 冊子 749頁
島津勝久が肝付方に、庄厳寺を介した相談と北原方との談合について述べ、条件が整えば父子を帰還させ、整わなければ別の措置を取る旨を伝えた書状。
十月五日 / 冊子 784~785頁
島津勝久が肝付越前守に、加治木をめぐる疑義は北原方へ尋ねるよう求め、忠節を尽くした舎弟刑部少輔の遺児養育への配慮と、流言への慎重な対応を依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 794~795頁
天文十年四月、北郷忠相方の兵が志和地の縄瀬を焼き、伊東・北原両軍と高城周辺で戦った経過を記す。島津豊後守忠広ら関係諸将の布陣、敵陣への突撃、城方の防戦を追い、各隊の戦死者を列挙して攻撃と反撃の規模を伝える。
年月日未詳 / 冊子 795頁
同月二十六日、北郷忠相が兵を志和地へ出し、伊東・北原方との戦闘で五十二人が戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 795頁
天文十年六月、北郷次郎右衛門久利が高城での伊東・北原両軍との戦いに参加し、戦死したことを記す。日付は十六日または二十六日との異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 799頁
天文十一年二月十二日、北原方が志和地・水流・縄瀬の麦作を刈り、瀬之越へ乱入したため、北郷方と矢戦になったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 800-801頁
天文十一年三月、樺山安藝守の隅州小濱の城へ南方勢が攻め寄せたため、日新公・貴久方が援軍を発し、北原方と対陣した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年三月、島津忠良と貴久が伊勢守・樺山氏らの軍勢を率いて大隅方面へ進み、北原方との合戦に臨んだ経過を記す。敵味方に死傷者が生じる中、豪雨で進軍と攻城の継続が困難となり、部隊をまとめて帰陣した判断と損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年春、北原方の侵攻を受けた溝辺・高松城方面の戦闘を樺山玄佐が記す。本田・加治木・帖佐・上野廣原諸勢の配置、城への攻撃と救援、各隊の戦死者を列挙し、城を維持できず退却するまでの大隅中央部の戦況を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 802~803頁
天文十一年閏三月、北郷忠相方が北原領の森田・西栫、山田・木野・牛谷の作毛を荒らして敵の兵糧基盤を攻撃した経過を記す。鹿野屋・蓬原方面で北原・志和池勢と激戦となり、双方に多数の死傷者を出した略奪・野戦の実態を伝える。
年月日未詳 / 冊子 803頁
天文十一年八月、北原方の高城攻撃を防ぐ戦いで馴松太郎介らが戦死したことを記し、戦死地や日付に異説がある旨を付記する。
年月日未詳 / 冊子 803~804頁
天文十一年七月四日、北郷忠相が志和池へ出兵し、三口に分かれて北原方と戦った経過を記す。白坂下総守や粟野地頭の滋谷兵庫頭ら諸将の配置・戦功を挙げる一方、各口で生じた多数の戦死者も列記し、志和池方面の合戦規模と北郷方の損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 804頁
天文十一年八月、伊東・北原両氏が高城を襲ったため、北郷忠親が都城から出兵し、小山宝光山から敵陣を攻めて勝利した。
年月日未詳 / 冊子 804頁
天文十一年八月二日、忠相方が北原領の木野・牛谷・楠牟礼の作毛を荒らし、追撃してきた北原勢と戦った。高城方は味方を返して敵を討ち、多数の首級を得た。
年月日未詳 / 冊子 804~806頁
北郷忠相が高城、忠親が都城を本営として伊東・北原方に備えた戦いを詳述する。敵情を探る斥候を出し、有田加賀・白坂下総守らの兵を伏せて敵を誘引した。激戦の末に北原方を退け、多数を討ち取り、両城の防衛に成功した。
年月日未詳 / 冊子 809頁
大永三年以来伊東方に奪われていた三俣・山田方面で、忠相が北原方と協力して領地を回復し、伊東勢を退散させた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 811~812頁
天文十二年五月、北郷忠親方が北原領の志和池城を攻めた合戦記事。黒丹後・有田加賀らが火矢を射かけて城内へ進入し、伊東・北原方の城兵と交戦した。敵が退散して城を占領した後、攻城で功を挙げた将兵へ褒賞を与えた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 812~813頁
天文十二年五月九日、北郷忠相が周辺諸城の兵を集めて志和池城を包囲した戦いを詳述する。柳川原口・安永・山田諸衆が火矢を射かけ、城内へ突入した。伊東・北原方の援軍を撃退して城を占領し、攻城で功を挙げた将兵へ褒賞を与えた。