重豪御鷹ノ鶴ヲ拝領ス(代受の記事)
文政3年2月9日 / 冊子 573頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1727
重豪公御譜中の記事。文政三年春二月九日、幕府から使番の新庄勝三郎を芝邸へ遣わし、重豪へ御鷹の鶴を賜った。島津筑後守忠徹が重豪に代わって受け取ったと記す。新庄勝三郎には実名闕との注記がある。将軍の賜物と使番の派遣、芝邸での代受を伝える記事で、鶴の羽数や重豪本人の直接受取は記さない。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
4 件 (全巻)/ 1–4件を表示
ページ 1 / 1
文政3年2月9日 / 冊子 573頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1727
重豪公御譜中の記事。文政三年春二月九日、幕府から使番の新庄勝三郎を芝邸へ遣わし、重豪へ御鷹の鶴を賜った。島津筑後守忠徹が重豪に代わって受け取ったと記す。新庄勝三郎には実名闕との注記がある。将軍の賜物と使番の派遣、芝邸での代受を伝える記事で、鶴の羽数や重豪本人の直接受取は記さない。
延元4年(1339)~明和3年(1766)の記事 / 冊子 398~402頁/原整理番号 4-1
後醍醐天皇第六皇子・征西将軍宮懐良親王を祖とし、良純・良政・良方・良張・良音・良央らへ続くとする近世薩摩在住家の系図。各人の出生・死没・法号、実子・養子・婚姻、松熊八郎・喜兵衛・喜右衛門・勝三郎などの通称と改名を記し、江戸・国元での勤役、府城での太刀一腰・馬代の献上と拝謁、高崎地頭職、船奉行・供奉、知行・褒賞銀などの奉公履歴を寛永から明和年間まで載せる。末尾の別紙は、平十兵衛家系図では同家を伊豆国伊東祐親―工藤祐経―祐明の後裔とする異説を示し、この別紙が『後醍醐院正統系図』中に収められていたと注記するため、懐良親王後裔説と伊東氏系譜説が併存する点が特徴である。
二月十四日、朱注は二月十五日の写送(安永五年の文脈) / 冊子 485~486頁/原整理番号 1347/整理ID 1347
嫡子がいる方は、その付衆へも知らせるよう求める。大目付から廻状と書付の写一通を渡され、陸奥守・大膳大夫に各方への通達を申し付けられたため、数通の廻状を相認めて回すことを伝える。二月十四日、松平陸奥守内諏訪九郎左衛門・田坂源太左衛門を記し、次頁には菅野勝三郎・齊藤源次・吉田隼太の名と、御次第不同の宛書欄が続く。宛書は御名と、有馬中務大輔・伊達遠江守・松平土佐守の各留守居である。小字の受領注は、薩摩守・土佐守は国元へ伝えること、有馬側は中務大輔の国元へ伝え、越侯・上総介へも申し聞かせること、伊達側は承知したことを記す。朱注には本文が到来したので写して差し上げた旨、二月十五日有川勇馬・左中様への記載がある。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。