肝付源之丞家系図
年月日未詳 / 冊子 133~135頁/原整理番号 484
肝付源之丞家の系図。伊賀守兼心の子兼光を祖とし、兼供らの養子・婚姻・出生死亡を多数の分岐で示す。大坂で長年奉公し、琉球渡海にも関わった人物の事績、兼達が江戸・小倉・長門国赤間関・大坂などへ公用で赴いた履歴を記す。末尾は寛文七年生まれの兼副と、兼武・兼富らの相続関係に至る。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
6 件 (全巻)/ 1–6件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 133~135頁/原整理番号 484
肝付源之丞家の系図。伊賀守兼心の子兼光を祖とし、兼供らの養子・婚姻・出生死亡を多数の分岐で示す。大坂で長年奉公し、琉球渡海にも関わった人物の事績、兼達が江戸・小倉・長門国赤間関・大坂などへ公用で赴いた履歴を記す。末尾は寛文七年生まれの兼副と、兼武・兼富らの相続関係に至る。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 490
島津内記家中の肝付曽兵衛家系図。宮之城肝付与兵衛兼武の二男兼貞を祖とし、兼貞が延宝九年霜月四日に没して法号を旭山了輝居士としたことを記す。以下、曽兵衛兼弘、伝左衛門兼常・兼全らの出生、女子の婚姻、母方を列記する。
年月日未詳 / 冊子 165~166頁/原整理番号 509
谷山の肝付伊左衛門家系図。古い系図は縫殿助の代の類火で焼失したため、それ以前は不明として略す。兼佳(縫殿助)は谷山で奉公し、島津大和守に従って正保二年十二月十一日に戦死、福昌寺戦亡帳にも記載されたという。男子のなかったため伊集院古左京亮の弟久兵衛尉の嫡子兼政を養子とし、兼政の子女、兼英・兼武・兼寛らの出生年月日と母方・婚姻を列記する。
年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
年月日不記(文明・慶長・寛永などの年次は各代の記事) / 冊子 644~647頁/原整理番号 117
兼忠の子・国兼とその庶流をつなぐ肝付氏系図。国兼は肝付郡本城の落城後、帖佐総善寺の裏で自害したと記す。兼光は兄兼連の行いを諫めても容れられず、守護方へ帰心して忠節を尽くしたといい、兼固は文明十八年に隅州溝辺を領し、大崎から溝辺へ移った。別系の兼演には加治木城を攻め取った記事がある。後代には伊集院忠棟の三男を後嗣とした経緯、家統の継承と阿多への移住、島津光久の妹や養女を通じた婚姻・養育関係などを載せ、兼加・兼年に至る系線が続く。