惟宗姓大寺氏系図
年月日未詳 / 冊子 366頁/原整理番号 166
惟宗姓大寺氏について、保音(弾正忠入道幸阿)・武幸から元幸、義幸、清幸、高幸、資保、衡幸らを経て近世の後裔へ連なる系図。元幸を島津元久の家老、衡幸を島津久豊の家老と記し、美作守・紀伊守・兵部少輔・治部少輔などの官途と幸善・幸栄・応正・幸朝・幸祐等の法名を添える。衡幸流の宗二郎が梶原氏の養子となったこと、兼幸流と公幸流の房太郎・彦二郎・千代若丸らの分岐も示す。
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年月日未詳 / 冊子 366頁/原整理番号 166
惟宗姓大寺氏について、保音(弾正忠入道幸阿)・武幸から元幸、義幸、清幸、高幸、資保、衡幸らを経て近世の後裔へ連なる系図。元幸を島津元久の家老、衡幸を島津久豊の家老と記し、美作守・紀伊守・兵部少輔・治部少輔などの官途と幸善・幸栄・応正・幸朝・幸祐等の法名を添える。衡幸流の宗二郎が梶原氏の養子となったこと、兼幸流と公幸流の房太郎・彦二郎・千代若丸らの分岐も示す。
宝永4年5月25日改訂・御記録所提出(系譜記事は天文~享保年間に及ぶ) / 冊子 585~593頁/原整理番号 100
伴家肝属氏の近代の家系を兼続以下の枝筋までたどり、子女・養子・婚姻、家督、官途・法名、所領、戦死や寺院関係を記した長大な系図。冒頭に宝永四年五月二十五日、改訂して御記録所へ差し出したと記し、兼続の弘治二年の口宣、良兼らの志布志大慈寺・日州の寺院や位牌をめぐる記事、兼長らの地頭職・知行、兼道らの島津家との関係や慶長五年の戦死を載せる。後段には享保年間の太刀・銀馬代や家格に関する願い、僧籍に入った者、女性の婚姻・離別も記し、宝永四年の提出後にあたる年次の記事も含む。単なる直系表ではなく、分家・養子筋と後年の由緒主張を併記した点に特徴がある。
万治二年四月十日 / 冊子 20頁/原整理番号 6-3
串良院慈雲山弘誓寺の宗珉が御地頭に寺免を願った書状。寺は志布志大慈寺開山の弟子徳翁の開基で島津氏久を檀那とするが、肝付氏の領知時に寺が破却され、書物や知行目録を失ったと述べる。氏久の位牌を今も安置していることを寺免の根拠に挙げる。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年などの年紀) / 冊子 557~561頁/原整理番号 62
鹿屋氏を天智天皇・大友親王から伴姓の余那足・善名・善男へつなぎ、仲用・仲兼・兼遠・兼行以下の多くの枝を図示した系図。善男の嘉祥3年の流罪、兼永が高城で宮方の攻撃を受け兄弟らと討死した記事、兼雄の鹿屋院長谷山城での合戦、忠兼の島津殿惣奉行・鹿屋下城の奪取など、系線に軍事・奉公記事を添える。兼好の加治木・千本などでの合戦と河野辺内五町の給付、兼直の平田との関係と弟の子の猶子化、兼健が幼時に伯父兼直の養子となり高隈を領した経緯、兼家の鹿屋での討死も記す。女性の新納氏・祢寝氏への婚姻、伯父から三俣院を譲られた兼重、鹿屋・肝付・河内・平田などへ広がる諸流の官途・法名・養子・没年を収める。これらは各人物に付された系図上の伝承・注記であり、成立年月日や一つの発給行為を示す文書ではない。
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年~安永8年の記事) / 冊子 561~566頁/原整理番号 63
天智天皇・大友親王から伴姓の善名・善男を経て鹿屋氏に至る系線を掲げ、兼俊を肝付城高山の領主、兼任を萩原、俊貞を安楽、行俊を和泉、兼高を梅北とする諸分流を図示する。宗兼が父兼石から鹿屋院の弁済使職を譲られ、鹿屋を家号としたという名字の由来が中心記事で、日州三俣院の領主領阿との関係も記す。永和の乱に宮方へ属した兼永と高城での戦死、兼雄の鹿屋院長谷山城での戦闘、忠兼の島津元久の家老職、兼好の加治木・千本方面での軍功、幼い兼健が伯父兼直の養子となり平田兼宗の口添えなどを経て高隈を領した経緯を添える。弘治2年8月17日の日州国合原の北郷氏・肝付氏戦では肝付氏に加勢した兼豊が戦死し、幼い兼清は鹿屋を離れて日州志布志に住んだことも記載する。後半は日州・隅州の地頭職、改名・法名、婚姻・養子と各家への分岐を追い、元禄・正徳・享保・宝暦・安永期の出生・死亡・居所まで記す。系図中の古い祖系・軍歴は本文に記された家伝として扱い、文書全体の成立年とは区別する。