野村元綱・岩切信元連署書状
寛永廿年八月廿二日 / 冊子 243頁
野村元綱・岩切信元が新納加賀守へ、地頭職の願いが上聞に達したことを伝えた連署書状。対象地は本人が長年勤功を重ねた場所であるため、特に地頭職を仰せ付けられたとし、現地の諸事を取り仕切るよう求めている。
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寛永廿年八月廿二日 / 冊子 243頁
野村元綱・岩切信元が新納加賀守へ、地頭職の願いが上聞に達したことを伝えた連署書状。対象地は本人が長年勤功を重ねた場所であるため、特に地頭職を仰せ付けられたとし、現地の諸事を取り仕切るよう求めている。
保元3年8月13日(1158)~文治3年5月(1187)の記事 / 冊子 428~430頁/原整理番号 13
桓武天皇・葛原親王から高望王、国香、貞盛、維衡以下を経て淵辺家・牛屎氏へ至る平姓系図。牛屎院を薩摩国伊佐郡の牛山・羽月・山野・入山・平泉五か所、祁答院を入来・鶴田・佐司・山崎・宮城・大村・黒木等から成る地域と説明し、両者を『両院』と称して城号でもあるとする。系図上の信基に対応する記事は『信元』が保元の軍忠により両院を知行したと記し、保元三年八月十三日には薩摩四郎元衡が牛屎院へ初めて下向したとする。寿永元年頃、京都の兵乱に際して院内守護を担った赤田一族が牛山に城郭を構えたが、相良・菱刈両家の連合軍に攻略され、院内が両家領となった経緯も付記する。末尾では基光(元光)が夢想により大平から大秦へ改姓し、文治三年五月に頼朝から牛屎院の本領安堵を受けたとして、その御教書を次項に掲げる。
〔元禄十三年〕十一月六日 / 冊子 234頁/原整理番号 10
猿渡信安が猿渡家の古系図写一通の扱いについて内意を伺った書付。猿渡藤三郎信元から二十代の喜右衛門に至る系図で、祖父吉岡宮内太輔久喜が自筆で写し、代々の文書と引き合わせた内容を朱書したものと説明する。系図の由来と保管状況を示し、処置を伺う。
〔元禄十四年〕十月五日 / 冊子 253頁/原整理番号 24
猿渡信安が編んだ『通考家譜』の冒頭。猿渡藤三郎信元を高望王七代とする家伝を桓武平氏系図と照合し、比企能員の甥として猿渡庄から薩摩へ下ったとする説を考証する。猿渡庄を尾張国とし、丹後局との親族関係を介して島津忠久と従弟に当たるという家の由緒を整理する。
年月日未詳 / 冊子 14~15頁/原整理番号 11
大平家の祖先について、保元の乱後に平信元が伊佐郡牛屎院等を給わったこと、北城八郎重道の系譜、寿永年間の牛山城合戦を経て元光・元能兄弟が鎌倉に所領回復を訴え、惟宗忠久の取り次ぎにより文治三年に本領安堵を受けた経緯を記す。末尾は頼朝下文・御教書の要旨を掲げる。
元文四年十二月十一日 / 冊子 561頁/整理ID 1406
元文四年十二月十一日の宗信元服を詳記する。黒書院で吉宗が又三郎に加冠し「宗」の字の折紙、盃・肴・宝刀を授け、松平薩摩守宗信と称した。同日、従五位下を経て従四位下・侍従に任じられ、宗信と継豊の名代忠就が吉宗・家重へ献上物を進めて謝礼した。
享保二十一年三月十八日 / 冊子 368~369頁/整理ID 876
宗信が江戸芝邸で元服し、島津但馬守忠就が継豊に代わって加冠し、家臣樺山久初が理髪を務めたことを記す。
元文四年十二月十一日 / 冊子 560~561頁/整理ID 1404
元文四年十二月十一日、継豊の名代島津但馬守忠就が又三郎忠顕を伴って登城し、黒書院で将軍吉宗が加冠して「宗」の字を与えた。又三郎は松平薩摩守宗信と改名し、従五位下から従四位下へ進んで侍従に任じられた。同日、忠就は継豊に代わり吉宗・家重へ太刀や馬代などを献じて謝礼した。
元文四年十二月十一日頃 / 冊子 562頁/整理ID 1408
又三郎宗信の黒書院での元服・御目見の次第書。着座、老中からの字の折紙拝受、献上物の進呈、将軍の盃・肴・小刀などの拝領と退席までの所作を順に記し、継豊の名代島津但馬守の進物・礼の手順も付す。
元文四年 / 冊子 567~568頁/整理ID 1419
宗信の元服・任官に伴い、宗信と継豊から将軍吉宗・大納言家重へ献じた太刀、白銀、馬、馬代金などと、江戸城内の女中衆への贈物を列挙する。御坊主組頭、御納戸組頭、御馬方などへの引渡し先、受取役、進物を届ける手順も記した目録。
元文四年十二月廿六日 / 冊子 573~574頁/整理ID 1433
島津家の江戸役人は国元へ、宗信の元服に際して将軍から仕舞いや礼儀を繰り返し褒められたことを報告する。大奥の女中を通じ姫君と継豊にもこの言葉が伝えられ、宗信の落ち着いた振舞いに一同が安堵した。十二月二十一日の大奥でのやり取りや報告の経路も詳述する。
元文五年正月十一日 / 冊子 582頁/整理ID 1454
宗信の元服に際して拝領した折紙が書判付きであったことから、以前の元服・一字拝領の折紙が書判か黒印かを記録奉行に調べさせた。大玄院の事例、吉貴・継豊への折紙、当代の取扱いに違いがある理由を問い、他家の元服例も聞き合わせて報告するよう求める。
元文五年 / 冊子 583頁/整理ID 1456
宗信の元服を賀して、江戸での元服後に南泉院など複数の寺社へ白銀を献納した記録。十二月二十一日と翌正月十三日などに分けて献納先と白銀の枚数を列挙する。
寛保三年正月十一日 / 冊子 728~729頁/整理ID 1874
宗信が元文四年十二月十一日の元服で、江戸城黒書院において吉宗から拝領した刀を記録する。刀は太守の納戸で譲り物として保管され、三所物・鍔・鞘・小刀・袋などの拵えと折紙を列挙する。後年の混同を防ぐため帳面への記載を命じ、種子島時成・椛山久初・島津久豪・島津久審が連署した。
文化元年9月(末尾。先例は元文4年12月及び天明6年12月) / 冊子 238~239頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0773-3
773の3、四つの先例を載せる。①元文4年未12月、故薩摩守宗信の元服時、公方へ太刀1腰・刀1腰(代金15枚)・縮緬10巻・白銀30枚・馬裸背1疋、大納言へ太刀1腰・刀1腰(代金15枚)・白銀30枚・馬裸背1疋。公方方の老女中へ白銀2枚ずつ、表使へ1枚ずつ。②同時の家督大隅守継豊から、公方へ太刀1腰・綿30把・馬1疋(代黄金10両)、大納言へ太刀1腰・馬1疋(代黄金10両)、それぞれ老女中へ白銀2枚ずつ・表使へ1枚ずつ。③天明6年12月、私(斉宣)の元服時、上様へ太刀1腰・刀1腰(代金15枚)・縮緬10巻・白銀30枚・馬裸背1疋、老女中へ白銀2枚ずつ・表使へ1枚ずつ。④同時の同氏栄翁重豪の家督について、上様へ太刀1腰・綿30把・馬1疋(代黄金10両)、老女中へ白銀2枚ずつ・表使へ1枚ずつ。末尾九月。元服本人と家督側、太刀と刀、現物馬と馬代、女中・表使の贈物を事例別に採録する。当年父子の贈物を定めた命令や許可とはせず、前773の2の伺に参照する過去例とする。
元禄十三年十二月十八日 / 冊子 234~236頁/原整理番号 11
吉利治部忠名が猿渡監物へ与えた古系図写に関する証文。猿渡藤三郎信元から二十代喜右衛門までの系図は吉岡宮内太輔久喜の自筆写で、原本焼失後に返却したため後代まで大切に保管するよう述べる。市来源右衛門家年の証文や、田中国明・隈元太市左衛門を介した系図・旧記照合の経緯を付載する。