馬越合戦戦死者交名
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
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永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 177頁
永禄十年十二月二十九日、市山城の守兵が大口城下を偵察したところ敵に察知され、西原川辺で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が多勢を相手に防戦して戦死したことを記す。敵は市山城まで追撃したが、城兵の鉄砲・矢で退却し、その後の警固を新納忠元に命じた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 177頁
永禄十年十二月二十九日、市山城将の市来家利・伊集院久慶らが西原で菱刈隆秋方と戦って戦死したため、馬越城にいた新納忠元が市山城守備を命じられたことを記す。忠元には蒲生の采邑が与えられ、大口城を落とした際には地頭とする旨も伝えられた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が評議なく大口城下へ進んだため、球磨・大口勢が数手に分かれて攻撃したことを記す。西原川口で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が防戦したが多勢に敗れて戦死し、敵は市山城下まで迫ったものの、弓・鉄砲で多数を負傷させられて大口へ退いた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が無評議で大口城麓へ近づいたところ、球磨・大口勢が大軍で出撃したことを記す。市来家利・平田加賀守・伊集院久慶は西原川口で戦ったが討死し、敵は市山まで追撃したものの鉄砲で大きな損害を受けて大口へ退いた。
永禄十年 / 冊子 160~161頁
永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納忠元を守将とした経過も載せる。
年月日未詳 / 冊子 360~361頁/原整理番号 64
菱刈重猛が伊東方と結び、三之山城が攻められた後、幼い鶴千代の所領処分を相談したことを記す。内応が続いたため島津方が飯野から馬越へ夜襲し、井手籠一族を討ち取る際、忠元も働いた。菱刈方は八城を放棄して大口へ退き、島津方は守備隊を配置した。大口は相良の加勢を得て市山へ攻め、守将らが討死した。忠元は大中から守備を命じられ、所領も受けたが、市山へ軍勢を移す下知が出た時の難儀も記す。