伊地知重貞書状
(明応五年)二月廿八日 / 冊子 570頁
伊地知重貞が本田氏に、加治木方面の軍事で援助を受けて勝利したことを謝し、今後も変わらぬ協力と関係維持を求めた書状。
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(明応五年)二月廿八日 / 冊子 570頁
伊地知重貞が本田氏に、加治木方面の軍事で援助を受けて勝利したことを謝し、今後も変わらぬ協力と関係維持を求めた書状。
十一月十五日 / 冊子 571頁
伊地知重貞が本田氏に、留主氏の所領没収に伴う加治木郷法楽寺田・修理田の処置を伝え、今後も協力して領掌するよう求めた書状。
正月廿七日 / 冊子 600~601頁
伊地知重貞ら三名が調所恒房に、祝儀時の庄内からの人足や前年の南方への動員をねぎらい、来月初三日の使者派遣などを申し合わせた連署状。
十二月十三日 / 冊子 116頁
伊地知重貞・本田兼親が新納家中に、若殿から初めて書状を受けたことを祝い、太刀一腰と馬一疋の進上に対する礼を述べた連署書状。年末で日数がないため、返礼の件を披露するよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 570~571頁
島津氏久による留主氏所領の没収と、加治木郷の法楽寺田・修理田、関所に関する権利が伊地知重貞へ与えられた経緯を記す本田重親伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 600頁
永正九年の阿多城をめぐる動きのなかで、国老伊地知重貞・本田兼親・桑波田景元らと調所恒房が軍事・政務に対処した経緯を記す伝記記事。
文亀元年十二月廿日 / 冊子 579頁
島津家老臣が、薩摩国河辺郡野崎名内木場の一ヶ所と水田・屋敷を坪付として示した連署文書。
永正九年三月廿七日 / 冊子 601頁
島津家老臣四名が連署し、薩摩国指宿郡、谷山郡和田名内、臥蛇島などの坪付・反畝を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 604頁
永正十一年の所領・寄進をめぐる処置と、調所恒房や島津家老臣らの関与を記す伝記記事。
永正十一年九月五日 / 冊子 604頁
島津家老臣四名が連署し、大隅国曽於郡内の田地を守公神へ寄進して、坪付と面積を列記した寄進状。
永正十四年三月廿一日 / 冊子 614頁
島津家老臣が連署し、大隅国吉田院内の坪付として田畠・屋敷の所在地と反別を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 352頁
伊集院久春(千代・源助・肥前守、入道名元巣)を起点に、母を伊地知左近将監重貞の娘と記す伊集院氏系図。久春が島津義弘の代に家老職へ補任されたことを掲げ、伊集院氏の家格と家中での位置を示す。
正治元年、建保元年12月19日、建保2年正月3日、建保7年2月13日、承久元年9月6日・8日、建暦3年5月2日・3日・9日、承久3年7月11日、仁治元年、嘉禎4年4月2日、建長元年8月9日、文永3年6月10日、文永4年4月24日、文永8年、弘安6年7月23日、弘安8年11月17日、正応5年11月7日・12月7日、嘉元2~3年、元亨元~2年、正中2年、建武4年、貞和2~7年、観応2~3年、正平9~12年、永徳3年、応永3~22年、康正2~3年、明応8年8月6日、安永3年秋 / 冊子 45~55頁/原整理番号 14-1
二階堂維遠流のうち、行光から行次までを『吾妻鏡』の記事と家蔵文書の目録を交えてたどる長編系図。行光の将軍御成・鶴岡八幡宮供奉・上洛使節、元行の和田義盛の乱での戦功と相模国懐島殿原郷・三河国重原荘の地頭職、行氏・行景の所領相続と幕府下文を記す。泰行については蒙古襲来への警固命令を受け、忍照尼の判断と久明親王の許可により薩摩国阿多北方へ下向した経緯を掲げる。行雄・行仲は建武・観応期に足利尊氏方として軍功を挙げ、尊氏・直義・直冬らの御下文・感状を伝えたとする。後半は行貞の田布施城籠城と島津元久への降伏、市来・阿多への移住、行隆の田布施城奪回未遂、忠行の足利義政供奉、行次代の島津立久・忠昌関係文書までを収める。
文書日付:明應八年八月六日 / 冊子 609頁/原整理番号 112/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0112
將軍家の御判形七通を請け取ったと記す。 御當家の御判形五通をあわせ、合計を十二通とする。 受領の表現を「請取申候」とする。 明應八年八月六日付で、周防守重貞と因幡守兼親が花押を据える。
年月日未詳 / 冊子 677頁
大永七年、加治木・野首原・帖佐などの戦いで戦死した山野助次郎、湯田仁右衛門、上井筑前守方秋、伊地知左近将監重貞らの没日と戦場を記す。
延徳4年11月13日 / 冊子 255~256頁/原整理番号 98
延徳四年十一月十三日、島津忠昌が肝付をめぐる時儀について、前日に上原藤左衛門尉を遣わし、さらに伊地知周防守重貞を派遣したため、両人から詳細が伝えられるはずだと知らせた書状。当地の時宜を伝えるため相良方にも書状を送り、周防守が申し述べる趣旨に従って細部を伝えるよう求め、二度申し送ったので重言はしないと結ぶ。写本は伊地知越右衛門家蔵で、上原休兵衛家にあったものを、菱刈孫兵衛の文書らしいと聞き、休兵衛へ懇望して書写したとの伝来注記を伴う。『旧記雑録前編二』一七一三号文書と同一とされる。