瀧ケ水合戦従軍者交名
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
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元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 256~257頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津氏への出仕を拒み、廻城主肝付忠勝の死後は伊東氏とも結んで敵対した経緯を述べる。元亀二年十一月二十日、百余艘の船団が鹿児島湾に侵入して瀧水村を攻めたが、平田新三郎ら帖佐衆約五十人が防戦し、敵船を退却させた。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 257~258頁
伊地知重興が肝付氏に同心し、日向・肝付・禰寝・下大隅の三百余艘で鹿児島方面へ来襲した戦闘を記す。野尻沖で伊集院善左衛門が鉄砲に倒れたのち、敵は瀧水に上陸したが、平田新三郎ら約五十人が撃退した。島津家久は瀬戸の防備を命じ、岸からの一斉射撃を受けた船団は軽石港へ退いた。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 292~293頁
元亀三年九月二十六日、島津義久が弟歳久を大将として下大隅へ派遣した。軍は樫島に船を繋ぎ、翌日瀬戸を渡って早崎高峰に陣し、伊地知重興領の小浜古城を攻めた。義久も古江浜へ船を進めて士気を高め、同日落城させた。島津方の戦死は肥後平次郎ら三人、伊集院久春が負傷し、小浜を前陣と改称して越年した。
元亀三年九月廿六日以後 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興を大隅の三凶徒とし、島津義久がまず下大隅征討を決めた経緯を記す。元亀三年九月二十六日、義久と歳久が軍を率いて樫島を経て小浜古城を落とし、早崎高峰を陣営として越年した。樺山玄佐は新春を祝う和歌を詠み、その後三氏が次第に島津方へ屈したと結ぶ。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293~294頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津義久への出仕を拒み、廻城を奪って敵対した経緯を述べる。元亀三年九月二十六日、歳久が将帥として下大隅へ出兵し、樫島・瀬戸を経て早崎に陣営を構えた。義久の進船に鼓舞された軍勢が小浜古城を落とし、同地を前陣と改称した。
年月日未詳 / 冊子 308頁
諸国の大名・小名が島津義久へ出仕するなか、伊地知重興と肝付省釣は伊東氏・相良氏と結んで敵対したと述べる。伊東方も天罰を受けながら、島津義弘の居城飯野を後方に置き、加久藤城を攻めようとした経緯を記す短い導入記事。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 308~310頁
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
(天正元年九月廿七日) / 冊子 319頁
伊地知重興・肝付省釣方との戦いで、島津軍が早崎野から敵兵を城へ追い込み、城地頭伊地知美作守が逃亡したため城を攻め取ったことを記す。大将は島津家久であったとする。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正二年 / 冊子 326~327頁
天正二年正月、牛根城攻めで新納忠元が逆瀬川武安らに切岸を掘らせ、守将安楽兼寛を降伏させて互いに人質を交換し、二十二日に入城した経緯を記す。さらに親族関係を利用して其阿上人を使僧とし、伊地知重興・肝付兼亮の帰順と所領献上を仲介した功績、大口里村に十躰愛宕を建立したことを述べる。
天正二年十一月廿日~閏十一月十九日 / 冊子 347頁
天正二年十一月二十日、義弘の旅館で重臣らに肝付氏への使者、下大隅の所替え、市成城の保持を評議させた。閏十一月十八日には上井為兼を江月斎の宿所へ遣わして滞在中の不行届を詫び、薩隅日三州の支配確認を求め、翌十九日には伊地知重興が南林寺を通じて下城から他所または鹿児島港への移住を願ったことを記す。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
天正元年九月廿七日~十一月中旬 / 冊子 317頁
天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将として平床へ陣を進めた。
天正二年正月三日以後 / 冊子 331~332頁
天正二年正月三日の茶園尾合戦から牛根城開城までを詳述する。島津軍の進撃に肝付勢が敗走し、義久が狂歌を矢に付けて城内へ送り、逆瀬川奉膳兵衛らが切岸を掘って降伏を促した。新納忠元の入城後、其阿上人を使僧として肝付・伊地知両氏の帰順と城地の献上・再配分が実現した経緯を記す。
天正二年八月~十二月 / 冊子 350~391頁
天正二年八月から十二月までの上井覚兼の日記。年始太刀献上の席次問題、入来院重豊の所領献上・所替えと血判、肝付・庄内の和平交渉、菱刈氏への譴責、江月斎の饗応、伊地知氏の移住・所領願、琉球・天草・志岐・義虎との外交、犬追物稽古、寺社争論と所領配当、福昌寺での犯人斬殺と代賢和尚慰留など、政務・軍事・儀礼・寺社・日常を日次で詳述する。
(貞享四年)七月廿八日 / 冊子 793頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2086
伊地知八右衛門重興が是枝治部右衛門・新納仲左衛門へ、五月十六日付状を受けた礼を述べ、虎徳誕生の祝儀について葉瑞孫六が江戸に登り、使者の役目が首尾よく済んだことを喜ぶ。内匠の御子方と又八も堅固である旨を喜び、自身は現在大坂にいると伝える。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
巻二/冊子 23~25頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興ら大隅の反島津勢力を討った長期戦を記す。義久は歳久らを派遣して小浜・古江方面を攻めるが、戦況は容易に決しなかった。そこで八木昌信が僧に同行して禰寝重長と秘密交渉し、婚姻を含む条件で降参を取り付ける。島津軍は高洲浦から肝付領へ進み、父忠将の仇を討とうとする征久らが先鋒となって敵を破った。一方、早崎の陣は夜襲を受け、家久が多数の傷を負いながら少数の従者と敵を押し返す。牛根城攻めでは平常岡・茶園尾へ陣を進め、断崖に道を築いて三日三夜攻撃し、城方を降伏させた。祢寝方も伊東・肝付勢の攻撃を受けたが喜入季久が防戦する。最終的に肝付・伊地知勢は服属し、人質を出し、新納忠元父子らが牛根城へ入った。秘密交渉、婚姻政策、夜襲、築道による城攻めを通じて大隅平定が進む過程を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 387~389頁/原整理番号 110
比良床への出陣と牛根城攻略を述べる自記。天正二年正月三日の攻撃では諸将が競って先陣を務め、軍勢を出した。義久が牛根を詠んだ戯歌を城へ射込む一方、大口の住民二人が夜に岸を掘り崩して城内を攻めた。軍神へ誓った新納武蔵守が下城を取り、諸城の地頭を置いた。浄光明寺の僧を介して肝付方へ和睦を勧め、諸所を与えて赦免すると、敵は兵船で退去した。重興らへの所領付与と、忠節を尽くした者への恩賞も記す。
年月日未詳 / 冊子 389~390頁/原整理番号 111
天正二年の牛根城攻略と肝付方の和睦を記す勲功記。安樂兼寛の守る牛根城を攻める際、忠元は逆瀬川らに岸を掘って道を通すよう指示し、幼い忠堯を城へ入れて兼寛の弟兼貫を人質として得た。十二日に城内へ入り四百三十余人を討ち、牛根領の獲得を忠元の功績とする。肝付方の当主らが没して勢力が弱まる中、忠元は兼純との親族関係や其阿上人を通じて和睦を勧め、二月に下城と五ヶ所を譲らせた。市成・廻・福山・恒吉の取得、先功の賞賛、愛岩建立と六月十四日の例祭も伝える。