人吉・球磨の有志士族が国家危急に際し禁闕守護を呼びかける檄文
明治10年3月3日 / 冊子 969~970頁/原整理番号 1246/整理ID 1246
人吉・球磨の有志士族が、前年の「長・肥」の暴動や鹿児島県の事件、刺客の供述をめぐる人心の不安を述べる。国家の危急を傍観できないとして、有志の士が同心合力して禁闕を守護し、国恩に報い、臣子の義務を尽くすよう呼びかける。国家非常の際にこの大義を担い、方向を誤らないよう求める。
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明治10年3月3日 / 冊子 969~970頁/原整理番号 1246/整理ID 1246
人吉・球磨の有志士族が、前年の「長・肥」の暴動や鹿児島県の事件、刺客の供述をめぐる人心の不安を述べる。国家の危急を傍観できないとして、有志の士が同心合力して禁闕を守護し、国恩に報い、臣子の義務を尽くすよう呼びかける。国家非常の際にこの大義を担い、方向を誤らないよう求める。
十二月廿七日の首尾報告(安永三年に対応) / 冊子 446頁/原整理番号 1225の13/整理ID 1225-13
渋谷五郎右衛門が届を持参して用人吉田彦右衛門と会い、名義の儀を内談したところ、御家来の名で届けている場合は御使者の名で書面を認めるよう挨拶した旨を聞いたと述べる。そこで御使者と片書のある渋谷自身の名の届を直に差し出すと、志摩守が承知し、書面を受け取った旨を彦右衛門から聞いたとする。この首尾を十二月廿七日、渋谷五郎右衛門が佐久間九十九へ継書で申し出たことを記し、末は市正承之とする。目録は山岡久澄覚書として独立に掲げる。御家来・御使者という届出名義の扱い、書面の差出、志摩守の承知・受領、継書の伝達を分け、人名を別人へ変更したという話にはしない。
年月日未詳 / 冊子 95頁
今川了俊が満範を州郡へ派遣して兵を募らせ、人吉・真幸方面へ進軍させた経過を記す肝付兼氏譜。相良前頼らへの対応を進める一方、兼氏が出兵要請に応じなかったため、了俊は禰寝久清らを介して参陣と軍功を繰り返し催促した。探題による軍勢動員と肝付氏の消極姿勢を示す。
六月二日 / 冊子 96頁
今川満範が、三か国の人々の多くが味方するとの報を受けて球磨郡人吉へ到着したことを伝え、速やかな軍事行動と合戦の相談を求め、関係者へ送る文書の案文を添えた書状。
六月二日 / 冊子 96~97頁
今川満範が、三か国の人々の多くが味方するとの報を受けて球磨郡人吉へ到着したことを伝え、速やかな軍事行動と合戦の相談を求め、関係者へ送る文書の案文を添えた書状。
「寛永十七年」七月九日 / 冊子 127~128頁
島津久慶が相良家中の騒動について国元の関係者へ指示した書状。相良家老清兵衛尉の縁者犬童牛兵衛らをめぐる殺傷・逃亡、江戸・肥後・人吉での捜索や追放者の処置を詳報し、薩摩へ逃げ込んだ場合は匿う者や協力者を含めて内密に調査・拘束し、早急に報告するよう命じている。追而書では大和守島津久章が高野山蓮金院へ登ったとの知らせを受け、蓮金院側から事情を聞き取るよう求めている。
文化7年5月8日入領、9月2日・18日出境(今茲夏)。末注文化6年12月16日条参照 / 冊子 353頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1096
天文方伊能勘解由(忠敬注)・坂部貞兵衛(惟道注)が諸国を測量しており、各御目見以下の注を付す。今茲夏5月8日、領内の志布志に入り、福山に至って二班となって各所を測量した。9月2日、貞兵衛が加久藤から肥後人吉へ向かい、同18日、勘解由が長島から出境して去ったと記す。詳細は斉興譜を見よとし、斉興公譜は全文が同じで末尾だけ差があるとの説明も付す。編者按は重豪譜にも詳細は斉興譜とあるが今は詳しく記せないとし、なお文化6年12月16日条の記載を参照するよう述べる。入領・二班への分割・それぞれの出境日を区別し、参照先の具体記載や今回の本文にない全行程を補わない。
6月21日 / 冊子 13頁/原整理番号 12
谷口重成・西田時通が、加藤肥後守改易に伴い必要時には薩摩からも人数を出すとの命を若衆中へ伝え、伊東祐慶に求めた馬の手配状況を報告する。肥後・球磨では商人から異変を聞かないものの、人吉で橋普請材木を日々引いているとし、新情報があれば直ちに注進すると五代友光へ申し送る。
弘仁3年4月、建久4年、建久9年、建長3年3月10日、応永年間 / 冊子 186~188頁/原整理番号 64
『藤原姓相良氏』と題し、入来家士・種田小仲蔵に伝わった相良氏系図。藤原南家の武智麻呂から乙麻呂・是公・雄友へ続く祖系と、弟阿・高扶・兼輔の系、維義・為憲以下の工藤氏系統を示す。為憲を工藤と号した遠江権介とし、時理・維景・時信ら駿河守の系を経て、維職を伊豆国押領使で工藤・伊東・林・狩野等の先祖とする。維清から入江原・船越・岡部・野辺・蒲生等、維遠から白尾等の諸流を分け、維頼―周頼を相良荘に結び付ける。光頼・頼広・頼繁・頼景を経て、長頼は相良三郎を称し、建久九年に球磨郡人吉へ住み始め、建長三年三月十日に没したと記す。頼親・頼平・宗頼・頼総以下から山北・山井・内田・高橋・多良木・佐牟田・上村・稲留・岩崎・窪田・黒肥地・肱岡などの諸家を分岐させ、頼氏・長氏・頼実・定頼以下について複数の異系譜を併記し、『是違重而可糺』と再考を促す注記を付す。後半は蘭牟田・薩摩瀬・村山・荒瀬・鶴田・竹下・西橋・蓑毛・深水・今村・丸目・丸野・青井・小垣などの庶流を掲げ、氏久公代の実長、応永年間・元久公代の祐頼、実続・長定・為続・治頼・長毎・長聖・長唯へ至る官途・実名・家系を記す。
文書日付:六月二日 参照事件年紀:今日二日 補記(正文と別層):永和二年 / 冊子 266頁/原整理番号 三三七/整理ID TMP-P02-NENE2-D0337
三ヶ国の人々が御方に志を寄せると承知している旨を伝える。 球磨郡の人吉に当日到着したので、急いで張行すれば喜ばしいと記す。 合戦の次第は返事に応じて相談することを述べる。 面談の書状案文を送り、御左右に応じ正文を送ると伝える。
年月日未詳 / 冊子 476頁/原整理番号 473の1
薩摩藩家老伊勢兵部少輔貞昌と、人吉城主相良頼寛の家老相良清兵衛頼兄との旧交を記す。江戸で島津光久に仕えていた貞昌に対し、球磨にいた頼兄が一揆の状況を書き送り、貞昌がこの日返書して壮心を励ましたとする編者記事。
巻三/冊子 38~41頁
伊東氏を保護した大友氏が秀吉へ島津征伐を求めたことに対し、義久が先に豊後へ攻め入った経過と、秀吉の九州国分け・征伐命令を記す。入田宗和・志賀道益ら大友方内部の離反を受け、新納忠元が密使を送り、天正十四年十月、義弘を大将とする三万七百余騎が肥後側から豊後へ進む。義弘勢は野尻・高城・津賀牟礼・松尾・鳥嶽などを攻略し、家久勢も日向側から三重方面へ進んだ。秀吉は島津・伊東・大友らの所領を配分する調停案を示して戦争停止を求めるが、島津方は従わず、十二月の戸次川方面の戦いで大友義鎮・仙石秀久・長宗我部信親・十河存保らの軍を破り、信親・存保を討つ。翌天正十五年、秀吉はこれを命令違反として九州征伐軍を進める。島津勢は府内・野上・玖珠方面から撤退を決め、義弘・家久は日向路、歳久・征久・忠元・伊集院久春らは肥後路へ分かれる。清田・三重・梅の隘・坂無・谷山・八代で追撃を受けながら防戦し、忠元らは国人の離反と豊臣方の海陸大軍の接近を見て、人吉を経て薩摩へ帰る。豊後侵攻の進展、戸次川での勝利、秀吉の国分け命令違反、豊臣軍来襲による撤退を一連の転換として描く。