湯田氏蔵旧記
天正八年~十五年 / 冊子 671~672頁
天正八年から同十五年まで、島津家がたびたび軍事評議のため召し寄せた外城の武辺・功者五十四人を、日向・高山・蒲生・小林・志布志・大口・川内など所属地別に列挙する旧記。蒲生衆湯田鶴右衛門の旧記から写したとする。
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天正八年~十五年 / 冊子 671~672頁
天正八年から同十五年まで、島津家がたびたび軍事評議のため召し寄せた外城の武辺・功者五十四人を、日向・高山・蒲生・小林・志布志・大口・川内など所属地別に列挙する旧記。蒲生衆湯田鶴右衛門の旧記から写したとする。
年月日未詳 / 冊子 274~276頁
『征韓偉略』の記事。秀吉死後の撤兵で加藤清正らが先に帰途につく一方、郭国安から報を得た陳璘が和議を破り、鄧子龍・李舜臣らの明・朝鮮水軍を出して日本軍の退路を襲った経緯を記す。島津義弘は小西行長救援のため忠恒・立花宗茂・寺沢正成らと出船し、順天・露梁沖で敵船と交戦して鄧子龍・李舜臣を討ち、唐島へ退いた。十九日に帰国へ向かうまでの戦闘、島津方戦死五十四人、敵艦六艘の獲得、諸記録間の日時・人物・戦果の異同も詳しく考証する。
年月日未詳 / 冊子 693頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1788
雑抄に、延宝八年正月十一日、田尻八兵衛の失火により家屋八百四十九軒が類焼し、死者五十四人となり、田尻火事と呼んだと記す。当日は春山の関狩で組中が留主の許しを得て総出したため鎮火できなかったという。光久の代のこととの注を伴う。
元禄十一年十二月十八日 / 冊子 92頁/整理ID 314
島津綱貴が、朝鮮船一艘・五十四人が商売のため十一月十三日に朝鮮を出帆後、難風で数日漂流し、十二月八日に屋久島一湊へ漂着したと報告した口上覚。食料を求める朝鮮人へ対応して番船を置き、支度後は警固を付けて薩摩経由で長崎へ送る方針を長崎奉行衆にも伝えた。
元禄十一年十二月二十八日 / 冊子 94–95頁/整理ID 322
丹羽長守・近藤用高が松平薩摩守へ、朝鮮船一艘に五十四人が乗り、十二月八日に屋久島一湊へ漂着したとの報告を承知したと返答した連署状。薩摩へ送り来た同船に警固を添え、着岸後は旧例どおり処置して早々に長崎へ送るよう命じる。
元禄十三年十二月十八日 / 冊子 253頁/整理ID 855
島津綱貴が幕府へ、朝鮮船一艘・乗員五十四人が十二月八日に領内屋久島一湊へ漂着したと報告した口上覚。船は本国を十一月二十三日に商売のため出帆したが難風で艤具を失い、飢えと渇きに苦しんだため一湊に滞船しており、番船を付け、支度が整い次第警固付きで長崎へ送ると長崎奉行へ通知した。
享保十一年三月十日 / 冊子 716~717頁/整理ID 1846
薩摩国市来村沖に南京出航の唐船一艘が乗組員五十四人とともに漂着した旨の報告を受け、承知を伝える。
正月廿六日 / 冊子 10頁/原整理番号 6-1
『島原軍衆人数差出留』の正月二十六日条。上津浦の土持左馬権頭以下、船廻りなどで各地へ到着した者の主従・人鉢・忰者夫丸を列挙する。鹿児島衆は計四百四十三人(人鉢四十人、御道具衆四十九人、忰者夫丸三百五十四人)。喜入舎人を米之津から帰したため除き、三口の合計を千八百四十六人(人鉢百六十六人、道具衆四十九人、忰者夫丸千六百三十一人)とする。
年月日未詳 / 冊子 67~69頁/原整理番号 59
諸外城から召し寄せられ、天正八年から同十五年まで度々の軍談合に加わった武辺功者54人を地域別に列挙する。蒲生衆湯田氏の旧記からの写し。季安は、水俣陣賦もこの54人が吟味して配したものかと推測し、考証のため補記したと説明する一方、上の陣賦と混同しないよう注意する。