島津立久書状
十二月廿九日 / 冊子 270頁
島津立久が、入来方面との約束や関係者の動向、前日の出来事への心得を伝え、今後の対応を河上三十郎左衛門へ求めた書状。難読箇所を含む。
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十二月廿九日 / 冊子 270頁
島津立久が、入来方面との約束や関係者の動向、前日の出来事への心得を伝え、今後の対応を河上三十郎左衛門へ求めた書状。難読箇所を含む。
天明三年十月廿二日 / 冊子 706頁/原整理番号 1990/整理ID 1990
島津重豪が島津三十郎の加冠に際し、仮名を又七郎とするよう定めた書出。天明三年卯十月廿二日付、御判。正文は島津主殿にあるとの保管注記を伴う。
(寛永十五年)四月廿一日 / 冊子 801頁
島原の大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶ件について、十~十二反帆ほどの船二十四、五艘と予備四、五艘を用意するよう求めた下曾祢三十郎ら三名の連署書状。
(寛永十五年)五月廿八日 / 冊子 808~809頁
島原から到着した船に石火矢・大筒・玉薬を積み、二十四艘で大坂へ回航したこと、別の一艘には当地の諸道具を積んで江戸まで届けるため、薩摩側の使者・船頭と相談して出したことを報じた三名の連署書状。
(明暦元年)七月十二日 / 冊子 262頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0572
久頼・久茂が役人五人へ、相良主税は役目を終えて暇を得たが供の者が多く病んだため盆過ぎまで出立を延ばすこと、大窪市左衛門の到着を報じる。前日に上使下曽根三十郎を介して雲雀を拝領したとも伝え、その旨を機会に綱久へ申し上げるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 177頁/原整理番号 299
『寛明日記』。二十三日、上使の水野藤右衛門が着陣し、島原御横目の下曽禰三十郎も着いたと記す。
文政6年1月27日・晦日、2月朔日(年は末尾朱注) / 冊子 649~653頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1911
備前守から桃次郎へ道具を送り、初めて霞ヶ関邸を訪れた際の応接・盃事・贈答を記す。正月二十七日、用人田代半七を使者に安否の沙汰一通、腰物・行列道具等を送った。書類は口上書一通、目録一通、拵目録三通、馬覚書一通、道具類覚書一通で、重濱三十郎による道具の見締めを記す。品物は康光の刀・弘行の脇差・盛重の児刀各一腰、扇子一箱、小袖三重、帯一筋、上下三具、行列諸道具一通、栗毛の馬一匹、鯛一折、樽一荷。刀は代金十五枚、脇差は左弘行・代金五十枚・折紙付き、児刀は代金十五枚・折紙付きとする。拵には秋草や獅子、鞠・絵蜘籠などの意匠、赤銅・金無垢・白鮫・黒塗・煮緒・絞子袋等を詳記し、吉岡因幡介、後藤光侶、小刀の摂津守源忠行・来金道・平安城来政行、鍔の越前紀内などの名を記す。馬札は「仙臺立松倉栗毛」、四歳・五寸五歩。別冊の品はここでは不詳とする。 正月晦日、翌朔日の初参りを用人野村市右衛門が知らせ、桃次郎が直接答え、上野帯刀が取り合わせた。二月朔日六半時に高輪を出発し、通町松坂屋脇・幸橋御門を経て霞ヶ関邸へ向かう。着服は絹羽織・半袴。迎えの用人水野頼母、刀番三人、小納戸早川小市郎・村岡進などの供を記し、岩元太右衛門をはじめ河村宗濱・野崎良右衛門・荒川仲蔵、山田新之助・櫻井半之丞らが出迎える。林五左衛門をはじめ用人・留守居・諸役人・諸士も迎え、桃次郎は鷹の間で長袴に替えて備前守と対面した。太刀目録を備前守へ直接渡し、用人が披露する。 茶・火鉢・煙草盆、肴、吸物、銚子、雑煮、土器三方等の取扱いと引渡しを記し、備前守と桃次郎が盃を交わし、初献に二献を加えて各三献として納める。黒田甲斐・木下左兵衛の二人の衆へ挨拶し、大奥で奥方とも対面して同様に盃を交わす。その後半袴に替え、備前守・奥方とともに二汁五菜の祝料理をとり、堀本一甫老の二の間で一同が料理を受ける。 用人林五左衛門・田代半七から肴各一折が披露され、こちらから銀子を遣わす。桃次郎の初参りの進上品は備前守へ太刀一腰・馬代黄金十両、奥方へたい一折。岩元太右衛門を通じ用人へ持たせて回し、備前守には別段、縮緬五巻・刀懸一箱・鯛一折も引き渡す。桃次郎から奥方への「ちりめん三くわん・香棚一はこ」に対し、備前守から印籠一提・博多織紙入地二切・通乗三所物一箱・鯛一折、奥方から高取焼香爐一はこ・茶子上下地三巻・たい一おりが桃次郎へ届く。 七時過ぎに表門を出て、霞ヶ関から虎御門・西久保・三田、本札の辻を通り、先に送られた行列道具も持たせて帰った。供の人数に応じて各人へ遣わした物は別冊にあり、ここでは不詳とする。末尾の文政六年は朱注。後藤光侶の末字、重濱三十郎の役名第一字、拵の「鵐目」と読める字形は留保する。
年月日未詳 / 冊子 765頁/原整理番号 818-1
二十一日、小笠原信濃守が1,800人で島原城加番に到着したと記す。十七日夜に500人で入津した久留島、本丸の小笠原、二ノ丸の久留島、三ノ丸の下曽根三十郎による守備と、城門・愛津口での手形検査を述べる。松倉家に多数の武具と鉄炮三千挺があると上使に伝わり、諸家へ分配するため員数書出しを命じた経緯を載せる。
慶安二年十一月十五日 / 冊子 163頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0304
光久公御譜中に、幕府の命による薩摩・大隅・日向・琉球の領国絵図を諸家で取りまとめ、慶安二年十一月十五日に奉行井上筑後守政清へ献上したと記す。さらに同年十二月六日、家光が下曽根三十郎信由を通じて御鷹所撃の鶴一双を恵んだとの付記がある。
慶安二年十二月七日 / 冊子 163~164頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0305
伊勢貞昭・新納久詮・町田久則が五宛所へ、太守の登城は公方の痛みにより延びたが、同朔日に下曾根三十郎を上使として御鷹の鶴を拝領したと報じる。御姫誕生の使者寺山又右衛門が三日に到着したこと、進物や一門の祝儀、京都・大坂の借銀返済と年内の八百五十貫などの調達・処置も相談する。
正徳三年一月廿八日 / 冊子 70頁/整理ID 162
島津吉貴が島津鐵之丞の加冠に際し、新たな仮名として『三十郎』を記して与える。
年月日未詳 / 冊子 248~250頁/原整理番号 333-36
細川方大先手の長岡佐渡勢が本丸へ突入した経過と、諸士の働きを列叙した記事。旗奉行西垣庄太夫が前日に鉄砲で討死したため、子の西垣太右衛門が父に代わって旗を支配し、佐渡備を抜けて二之郭へ入り、砲石・火矢を受けながら本丸内の高所へ旗を立て、後続の目印としたという。続いて式部配下や諸士の進撃、槍戦・討死・負傷を記し、長岡右馬助が耳際を槍で深く突かれながら敵を突き伏せ、家来下田市兵衛に首を取らせた後、深手のため本陣へ退いたこと、津田三十郎が組の小姓を率いて佐渡備へ加わったことなどを述べる。
年月日未詳 / 冊子 370~371頁/原整理番号 452
『諸将有馬着陣覚書』は、松倉長門守・右近、板倉内膳・石谷十蔵をはじめ諸将・上使・目付・横目らが、寛永十四年十一月から十五年二月に島原・有馬へ到着・出陣・着陣した日程を人別に列記する。伊東大和守らを天草城代として遣わしたこと、島原横目下曽根三十郎の二月二十三日島原着も記し、攻口・間数の記載は前巻にあると注記する。
(寛永十五年)四月十五日 / 冊子 799~800頁
島原にある大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶため、小笠原壱岐守・久留島丹波守・下曾祢三十郎から受け取り、大坂町奉行へ引き渡すこと、船数と船の大小を報告することを命じた連署書状。