中西秀長書状
(寛永十一年)七月十九日 / 冊子 436~438頁
中西長門守秀長が児玉筑州へ、七月二十四日の京都出立予定を知らせ、借銀増加に伴う諸士知行の上地・再配当をめぐる自身の処遇について内々の取成しを求めた書状。上伊集院・鹿児島衆への配当、荒地・上地の扱い、北山村三百八十石や残余七百石余の知行、伊敷を宮之浦の御蔵入と交換して伊敷を拙子へ与える案などを挙げ、他方の下手同然となることへの不満と、公儀・黄門様への申開き、知行確保を訴える。
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(寛永十一年)七月十九日 / 冊子 436~438頁
中西長門守秀長が児玉筑州へ、七月二十四日の京都出立予定を知らせ、借銀増加に伴う諸士知行の上地・再配当をめぐる自身の処遇について内々の取成しを求めた書状。上伊集院・鹿児島衆への配当、荒地・上地の扱い、北山村三百八十石や残余七百石余の知行、伊敷を宮之浦の御蔵入と交換して伊敷を拙子へ与える案などを挙げ、他方の下手同然となることへの不満と、公儀・黄門様への申開き、知行確保を訴える。
(万治二年)一月十一日 / 冊子 376~377頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0823
島津光久が総高七十二万八千七百石余を前提に、領国内の公平な検地と知行配分、私心・贔屓の禁止、琉球国司領等の扱い、地頭所への配分、境目移住者と新開田の処置を定めた袖判条書。
(万治四年)一月二日 / 冊子 434~435頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0920
島津図書久通が鎌田蔵人へ、金山は出入りが多く節季には山中五千人ほどになるとの見込み、近国からの米の流入、山中米六十五匁・肥後肥前七十匁ほど、芹ケ野山と長野山下の金脈・入人の状況を報じる。島津大膳の喜入名跡・知行千五百石と屋敷、養父死後の扱い、弾正の下総養子・知行千七百石余と別給三十斛等を述べる。馬は相良蔵允の好み、馬場貴の見立、鼠の痩せた様に足長く筋細い形、星栗毛曲の馬と当分乗料として申し受け置くこと、乗方評価の相談を記す。年内の鷹御免を喜び、鎌田源左衛門・町田勘解由も同断とする。極月十八日の琉球衆振舞と珍味、長命寺・三井寺・養老の湯等で結ぶ。
天明六年閏十月二十二日 / 冊子 888~889頁/原整理番号 2468/整理ID 2468
重豪は、薩摩・大隅・日向の領内で六月一日から二十一日までの洪水と八月二十八日の大風により生じた被害を届ける。被害高は二十五万三千石余で、当損二十四万九千七百石余、永損三千三百石余とする。潰家一万五千八十七軒、流家三十軒、堂社二十一宇、米・雑穀四万千六百石余、堤三万四千五百六十間、井手千七百六十か所、道五万六千三百六十間、橋五百十六か所、大小の船二百三十七艘を挙げる。死者は百九十八人(男百七十四人、女二十四人)、死牛二匹、死馬三十四匹と記す。