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HP-0956巻5:76注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

川上忠実

異名・検索語:川上忠実/川上出羽守忠実/出羽守/又十郎/六郎兵衛/忠実

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:初名の旧記録又五郎を原字により又十郎へ訂正。没日は六月二日と読む。享年は六十の後がかすれ、六十/六十一を確定しない。法名の細字も留保する。/前段は文禄四年に彭久(征久との小注)病死、後段は慶長六年征久死去と記す。人名・年代の関係を断定せず原記載の疑義を保持する。相模守信久の小注等も追加校合を要する。/島原での討取り、戦死者数と三十六筋の矢は本文の叙述として示す。他人物条の討取り役割と無断統合しない。朝鮮の城名等細字は留保。墓所から没地を推定しない。

DESCRIPTION

本文内容説明

川上出羽守忠実は大炊介忠光の子。初め又十郎、六郎兵衛とも称し、右馬頭征久に仕えた。本文は天正十二年の島原合戦で竜造寺右衛門大夫を討ったと記す。朝鮮では主君の病没後に軍代を務め、慶長三年の撤退戦で殿を守った。以久家臣百五十余人が戦死し、自身も三十六筋の矢を受け、馬を失ったという。海老原越後の家人市助が奪った敵馬に乗り、伊勢貞昌らの救援で逃れた。惟新公の指示で馬上のまま入城し、矢を抜く治療を受け、景光の脇指を拝領。帰国後には義弘・忠恒から馬二疋、以久から五百石を与えられた。関ヶ原にも従い、のち駿河で佐土原跡目の請願に当たった。元和九年六月二日没と記す。墓は垂水福寿寺、没地は不記載。享年・法名の細字と主君の死去年次には留保がある。

系譜・人物関係

大炊介忠光の子。初又十郎、六郎兵衛。右馬頭征久家臣。以久の奉公記事もあり。

奉公・役職

島原合戦、朝鮮で軍代と撤退時の殿、関ヶ原の退去御供、駿河での佐土原跡目請願。

軍役・事績

三十六筋の矢と馬の死、市助の敵馬奪取、伊勢貞昌らの救援。惟新公の指示で馬上入城・治療・景光脇指拝領。義弘忠恒から馬二疋、以久から五百石。

生没・法名等

元和九年六月二日没と読む。享年六十の後のかすれと法名細字は留保。墓は垂水福寿寺。没地不記載。

統合人物ID
HP-0956
原人物ID群
05-076-02
氏・分類
川上
掲載巻頁
巻5:76
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
大炊介忠光の子。初又十郎、六郎兵衛。右馬頭征久家臣。以久の奉公記事もあり。
検索キーワード
天正/文禄/慶長/元和/家臣/合戦/戦死/渡海/朝鮮/島原/子/卒/法名/歳/家系由緒・奉公・軍役
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常AI各全2頁・原冊76頁・拡大・修復候補全頁確認済。
公開判定根拠
初名と没日を原字で訂正し、救援治療褒賞を具体化。享年・人名年代等の疑義を注記して公開する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
冊子76頁上段〇川上出羽守忠実の見出し・系譜・島原朝鮮軍役から、下段右端の以久五百石・関ヶ原・佐土原跡目請願・没日法名墓注まで全2頁。次の〇川上主殿介久清は別条。第2頁左境界400.184876から401.8ptに調整し隣条微小片を除去。末尾卒ス・法名・墓ハ垂水福寿寺ニアリは保持。新規IDなし。
判読保留
初名の旧記録又五郎を原字により又十郎へ訂正。没日は六月二日と読む。享年は六十の後がかすれ、六十/六十一を確定しない。法名の細字も留保する。/前段は文禄四年に彭久(征久との小注)病死、後段は慶長六年征久死去と記す。人名・年代の関係を断定せず原記載の疑義を保持する。相模守信久の小注等も追加校合を要する。/島原での討取り、戦死者数と三十六筋の矢は本文の叙述として示す。他人物条の討取り役割と無断統合しない。朝鮮の城名等細字は留保。墓所から没地を推定しない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』