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HP-0762巻之四59~60頁注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

上井覚兼

異名・検索語:上井覚兼/上井伊勢守覚兼/神左衛門為兼/上井為兼/伊勢守/一超宗咄庵主

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

本文の生年(天文四年)と没年(天正十七年)・享年四十五は整合しない。記載を推定訂正せず保持。一部巡行記事の細字・地名表記は留保。

DESCRIPTION

本文内容説明

上井伊勢守覚兼は薫兼の嫡子、母は肝付兼固の娘。初め神左衛門為兼と称した。天正元年に申次役、四年に老中となり、義久へ度々諫言した。高原・高城の合戦に従い、石之城攻めでは副将を務めた。八年、日向の押えとして宮崎地頭となり、海江田八十町を与えられて永吉から移住。肥後では忠長・忠棟と連署し、耕作への乱妨や喧嘩を禁じる高札を出した。十四年の岩屋城攻めで先頭に押し寄せ、石打ち・鉄砲で負傷。八代の宿で武庫公の見舞いを受けた。豊後出陣後、十五年に伊集院地頭へ移り、義久から日向での忠節を労う書状を受けた。十七年六月十二日、伊集院で病没。法名一超宗咄庵主、墓は妙円寺。本文の享年四十五と生年の天文四年は整合しない。末尾に天正二年八月から十四年十月までの覚兼日記を付記する。

系譜・人物関係

薫兼嫡子、母肝付越前守兼固女。初神左衛門為兼、異本には入道休安。父薫兼の志和洲城居住は父の付記で本人と区別。

奉公・役職

天正元年申次役、四年老中。義久へ度々諫言するが許容されなかったとの記事で、老中辞退とは断定しない。八年、日向の押えとして宮崎地頭、海江田八十町。永吉から宮崎へ移る。十五年日州番召上げ後、伊集院地頭に任じられて転居。

軍役・事績

高原城門攻破、石之城攻めの副将、高城合戦に供奉。義久病気平癒のため法華嶽寺に参籠した記事と和歌。肥後で忠長・忠棟と連判し耕作乱妨・喧嘩口論禁止の高札。羽柴衆下向の風聞を巡る対応と自身の病気を伝える三箇条。天正十四年岩屋城攻めで覚兼手が一番に押し寄せ、本人も石打・鉄砲で負傷。清武衆・海江田衆らに死傷、山田有信の二番も負傷者多数。八代の宿で武庫公の見舞い。家久と豊後へ出陣し緒方城攻略・利満城下軍功。伊集院移転時に義久の労いの書状。末尾覚兼日記は天正二年八月より十四年十月まで。

生没・法名等

天文四年二月十二日生と記す。天正十七年六月十二日、伊集院で病死、享年四十五。生年と享年の不整合を留保。法名一超宗咄庵主、墓妙円寺。

統合人物ID
HP-0762
原人物ID群
04-059-03
氏・分類
上井
掲載巻頁
巻之四59~60頁
主題・活動
申次役・老中・宮崎伊集院地頭・岩屋城負傷・覚兼日記
人物関係要約
薫兼嫡子、母肝付越前守兼固女。初神左衛門為兼、異本には入道休安。父薫兼の志和洲城居住は父の付記で本人と区別。
検索キーワード
上井覚兼/伊勢守/神左衛門為兼/休安/薫兼/肝付兼固/義久/武庫公/宮崎/海江田/永吉/高原/石之城/高城/岩屋城/八代/伊集院/一超宗咄庵主/妙円寺/覚兼日記
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常AI各全3頁・原冊照合済。生没年・享年不整合を留保、日記期間と第3頁左境界を修正。
公開判定根拠
役職・知行・戦功・負傷・没地墓所を確認。生年享年の不整合を注記し、末尾境界修復後の本文へ案内可能。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
通常AI各全3頁・原冊59上段から60上段を照合。冒頭異名・父母小注、父の居住付記、覚兼日記の末尾付記は関連内容。第2頁の三箇条の一は書状条目で人物見出しではない。第3頁左境界を2pt狭めて次条の文字片を除去し、同十四年十月マテの付記全体は保持。
判読保留
本文は天文四年二月十二日生、天正十七年六月十二日没、享年四十五と記し、生年と享年が整合しない。いずれかを推定訂正しない。/法華嶽寺参籠と巡行記事の一部細字・地名表記は留保する。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』