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HP-0390巻二:24注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

橋口泰重

異名・検索語:橋口泰重/橋口対馬介泰重/橋口対馬/対馬介/泰重/上野甚三郎/大左衛門/橋口泰一(旧索引表記)

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:没年・享年は主文の寛永二年丑三月九日・八十三と、引用系図の慶安二年・八十九が異なる。後者の干支注との整合も含め確定しない。旧説明の五月九日は三月九日へ訂正。/伊賀で盗み取り炊飯に用いた器物名と、その形状の細注の字形は留保。飯を炊いて差し上げたこと、器物を子孫が所持する旨は確認できる。

DESCRIPTION

本文内容説明

橋口泰重は初め上野甚三郎・大左衛門と称し、父は上野勝三郎泰芳。惟新公(島津義弘)の中間として馬「膝突栗毛」の飼養を命じられ、木崎原・朝鮮・関ヶ原に従った。朝鮮泗川では忠恒の供をし、危険な橋へ進む馬の口の轡を取って止めた。忠恒に鞭で打たれ負傷しても放さず、直後に橋が落ちたため、惟新公に賞されて橋口対馬と改名したという。関ヶ原からの帰路には伊賀で飯を炊いて差し上げた逸話も載る。父は永正6年に京都から来薩し伊集院に住んだとし、子孫は渋川姓で帖佐にいた。寛永2年3月9日病没、83歳と記すが、系図には慶安2年没・89歳とする異説があり留保する。法名重山宗珍上座、墓は帖佐亀泉院。

系譜・人物関係

父は上野勝三郎泰芳。永正6年京都から来薩・伊集院居住は父の経歴。子孫は渋川名字で帖佐に居住。初め上野甚三郎・大左衛門。

奉公・役職

惟新公の中間として膝突栗毛の飼方を命じられる。朝鮮泗川では忠恒公御供。橋口姓の褒賞者は惟新公、危険な橋への進行を止めた相手は忠恒公。

軍役・事績

木崎原・朝鮮・関ヶ原御供。泗川で忠恒の馬の轡を取って危険な橋への進行を止め、鞭で二ヶ所負傷しても放さず、橋崩落後に惟新公から橋口を名乗るよう命ぜられ橋口対馬と改名。関ヶ原帰路伊賀で器物を盗み取り飯を炊いて差し上げ、器物は子孫所持。器物名・形状細注は留保。

生没・法名等

主文は寛永2年丑3月9日病死83歳、法名重山宗珍上座、墓帖佐亀泉院。系図では慶安2年没89歳とする由を付記し、干支注を伴う。生年月日・病没地は明記されない。寺所在地を病没地へ転用しない。

統合人物ID
HP-0390
原人物ID群
02-024-02
氏・分類
橋口
掲載巻頁
巻二:24
主題・活動
軍役・中間奉公・橋口改姓由緒
人物関係要約
父は上野勝三郎泰芳。永正6年京都から来薩・伊集院居住は父の経歴。子孫は渋川名字で帖佐に居住。初め上野甚三郎・大左衛門。
検索キーワード
橋口泰重/橋口泰一(旧索引)/上野甚三郎/大左衛門/上野勝三郎泰芳/永正六年/京都/伊集院/惟新公/義弘/忠恒/中間/膝突栗毛/木崎原/朝鮮/泗川/関ヶ原/改名/伊賀/渋川/帖佐/寛永二年三月九日/八十三/慶安二年/八十九/重山宗珍上座/亀泉院
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
全1頁と修復通常・AI各全頁を確認。泰重・没月三月・主文83歳を校正。父の来薩と本人軍役を分離し没年異説・器物細字を留保。
公開判定根拠
本文に基づき氏名と没月・年齢を訂正。軍役・改姓由緒・法名墓所を整理し、没年異説と器物細字を注記して公開可。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
現用通常・AI各全1頁と原冊24頁上段を照合。橋口対馬介泰重見出しから初名・父・子孫小注、木崎原朝鮮関ヶ原軍役、泗川改姓由緒、伊賀炊飯、病没・法名・墓所・系図異説の末尾有之由まで保持。修復通常・AI各全1頁を再確認。右端小注の欠けを回復、左の新納記事仁之部と右の前記事帳存之を除外。〇対馬ハは同人逸話で新規採番不要。
判読保留
没年・享年は主文の寛永二年丑三月九日・八十三と、引用系図の慶安二年・八十九が異なる。後者の干支注との整合も含め確定しない。旧説明の五月九日は三月九日へ訂正。/伊賀で盗み取り炊飯に用いた器物名と、その形状の細注の字形は留保。飯を炊いて差し上げたこと、器物を子孫が所持する旨は確認できる。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』