宇久純玄書状
天正十一年二月十二日 / 冊子 754~755頁
宇久純玄が伊地知重秀へ、以前から島津家の意向を受け、諸事が望みどおりになったことを祝して太刀一腰・馬一疋代を贈り、使者貞方右衛門佐の取りなしを依頼した書状。
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天正十一年二月十二日 / 冊子 754~755頁
宇久純玄が伊地知重秀へ、以前から島津家の意向を受け、諸事が望みどおりになったことを祝して太刀一腰・馬一疋代を贈り、使者貞方右衛門佐の取りなしを依頼した書状。
天正六年頃 / 冊子 534~535頁
島津義久代の老中八人と使衆八人を列挙する交名。老中に平田美濃守光宗・川上左近将監・伊集院忠棟・村田経定・喜入季久・本田三清・上井覚兼・町田久倍、使衆に新納康久・伊地知重直・税所篤和・吉田清治・鎌田政景・本田親治・比志島国貞・伊地知重秀を掲げる。
天正三年三月十五日 / 冊子 430頁
天正三年三月十五日、島津義久が代始めの犬追物を催した際の装束と式次第を記す。対面所で三献を行い、手長・配膳・包丁人・掻副・弓箙・行騰・沓鐙押などの役を定め、義久が庭で騎馬して惣門から馬場へ入り、射手らが待ち受けた。
天正十一年五月二十四日 / 冊子 755頁
天正十一年五月二十四日、上井覚兼が出仕すると、島津義久から忠平を八代へ移して名代とし国政を裁判させる構想について意見を求められた日記。老中・使衆・地頭衆を必要に応じ八代へ移す案を協議し、あわせて宇久純玄の使者貞方右衛門佐が書状・太刀・織物を持参したことを記す。
天正十二年四月十九日~二十二日 / 冊子 892~893頁
四月十九日、義久は本田親貞を伴って八代から帰国し、義弘・伊集院忠棟・平田光宗を八代、島津忠長・上井覚兼を有馬に残して肥前・筑後・肥後の調略を続けさせた。二十二日、覚兼らは有馬鎮貴へ、薩摩勢の帰帆、有馬旧領の回復、温泉山再興と神領設定を提案したが、鎮貴は一、二か月の駐留継続を求めた。
年月日未詳 / 冊子 149~150頁/原整理番号 33
『上世略』として梶原太郎を号した景久から景長へつなぎ、景時・景季・景高・景茂らの諸流を展開する梶原景久流系図。景久流と、兼純・滋純・助純・信純・義純・重純・政純らの系線を掲げ、北原弥次郎の称号、薩摩国日置、鹿児島城・別府での討死、官途・法名・嫡子・次男・養子関係を記す。吉田上村、島津式部亮、三俣中野、伊地知、玉利・迫田、伊集院野田など諸家との婚姻を列記し、僧慧原・僧超慶・僧祐寿ら出家者も収める。左注には文明六年の『行脚雑録』に梶原主計が見えること、伊地知尾張守重秀の妻が梶原氏女で、天文三年閏正月七日に没し法名を秀窓妙用大姉としたとの記事を掲げ、墨色の違いと続筆関係も注記する。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。