雑抄
永禄十一年八月九日 / 冊子 199頁
永禄十一年八月九日、伊東氏が相良氏と結び、飯野近くの桶比良に陣を置いた際の記事。加久藤・馬関田の百姓が心変わりして飯野城を犯そうとしたため、義弘が守備を固めた。伊東陣を嘲る狂歌一首を札に書き、密かに陣下へ立てたとする。
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永禄十一年八月九日 / 冊子 199頁
永禄十一年八月九日、伊東氏が相良氏と結び、飯野近くの桶比良に陣を置いた際の記事。加久藤・馬関田の百姓が心変わりして飯野城を犯そうとしたため、義弘が守備を固めた。伊東陣を嘲る狂歌一首を札に書き、密かに陣下へ立てたとする。
永禄十一年八月九日 / 冊子 199~200頁
永禄十一年八月九日、大口方が前約に背いて堂崎の通路へ陣を築き、伊東義祐も相良氏と結んで飯野桶比良へ陣を構えたことを記す。加久藤・馬関田の百姓が敵方へ心変わりしたため、義弘が飯野の守備を固め、桶比良攻撃を企てたが長雨で実行できなかった。島津方の武士が伊東陣を嘲る狂歌を陣下へ立てた。
慶長五年十二月十八日 / 冊子 724頁
入来院恒吉(弓市)が、慶長四年十二月から慶長五年十一月までの使者往来と魚塩荷物の通過を条々に記した覚書。大童仁兵衛らの使者、魚塩七十荷・七荷の輸送、加久藤衆などの動きを記し、鹿児島へ提出したうえ湯尾に控えを置いた。
(寛永15年)正月5日 / 冊子 564頁/原整理番号 579
鹿児島賦所が馬関田衆へ出した手形。島原加勢の人数三十八人を定め、鉄砲・弓・鑓、飯米、水船を用意して差し出すよう命じる。寛永十五年正月五日付。
正保二年十一月二日 / 冊子 240~241頁/原整理番号 173-11
十一月二日付の廻状。沢原野の狼垣で見回りが行き届かず、野火で焼損した箇所があるため、早急な普請を命じる。関係諸所で損傷箇所を見回り、必要な人員と垣木を出して修理するよう求める。
寛永二十年正月六日 / 冊子 103頁/原整理番号 11-1
三原重庸が飯野などの曖衆へ、御蔵入の井手溝・川除の普請について代官衆と相談し、丁寧に進めるよう命じる新春の廻状。
永仁五年七月日 / 冊子 382頁
安楽寺領日向国馬関田の定補預所職に左兵衛尉惟宗友時を補任し、庄務を執行して寺役以下の年貢公事を納め、違失があれば改易すると定めた下文。
(寛永15年)正月11日 / 冊子 603頁/原整理番号 659
肥前国島原へ出立する馬関田衆の人名と若党・小者を列記し、合計十三人とした人数賦。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
正保三年九月十九日 / 冊子 25~26頁/原整理番号 28
山奉行所が飯野御城山での御狩に向け、吉野・脇本・加治木・有川の宿次を経て、吉松・吉田・馬関田・加久藤・小林などの衆中に日限と召集を伝えるよう命じる。追而書に狩の担当者名を掲げる。
正保三年正月七日 / 冊子 241頁/原整理番号 174-1
正保三年正月七日付の達書。沢原野の狼垣が野火で焼損し、狼が入りやすくなったため、垣の普請を早急に行うよう命じる。焼損箇所と必要な人員・木材を示し、御牧の馬が散逸しないよう修理を急がせる。
年月日未詳 / 冊子 239頁/原整理番号 173-9
沢原野御牧で使う焼印金二つについて、牧の諸所に備えるため、財部淡路守の指示に従って竹内権左衛門尉のもとへ送り置いたことを知らせる書付。
正保二年一月十日 / 冊子 1頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0001
新納忠清が、金山外垣の縄結いと朽木の取り替えを二十日までに修理するよう各地の役人へ命じた廻状。定番衆の指図に従い、普請衆が欠けないよう主人を付けて堅固に施工し、鹿児島からの検分にも備えるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
年月日未詳 / 冊子 831頁
文禄三年十二月十日、栗野で兵庫頭忠恒の御前に定められた人員移動と土地配置を記す覚書。上野彦九郎や吉田等松田弥蔵、飯野衆、多藤五郎などの移転先・召集・交代を列記する。 吉田・馬関田・小林・高原などの人々について、合計約百六十人をどこへ配置するかを具体的に示す。朝鮮出兵期の薩摩国元における家臣団の再編と土地支配を知る史料。
正保三年四月七日 / 冊子 38頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0066
新納忠清が、和泉守の鹿児島行きを承知し、万事怠りないよう依頼する。伊主膳正の煩気が早く快復したことを喜ぶ。馬関田との境出入は鹿児島奉行所から指示を得て処置したが、今後難しくならないよう行司衆にも堅く申し渡し、重ねて相談するよう求める。宛先は川野与右衛門・西田和泉守・白坂大炊左衛門。
正月17日 / 冊子 729~730頁/原整理番号 761
馬関田からの人数を人躰十人・夫一人と記し、野村三郎兵衛尉と斎藤五兵衛の主従各二人を挙げ、合計十三人とする指出。正月十七日付で、年の丑には寅かとの注記がある。正文は馬関田曖中に所在すると記す。同内容の765と対照できる。
正月17日 / 冊子 730頁/原整理番号 765
馬関田からの人躰十人に続いて「在壱人」と記し、野村三郎兵衛尉・斎藤五兵衛の主従各二人を挙げ、合計十三人とする。正月十七日付で、年の丑に寅かとの注記がある。所在は馬関田曖中。同内容の761では該当箇所を「夫壱人」とするため、原記載の違いを残して対照する。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
明治9年12月4日 / 冊子 963~964頁/原整理番号 1238の3/整理ID 1238-3
日向国の第十一大区から第十六区について、志布志・大崎・松山、都之城・三俣・荘内、高城・山之口、高原・小林・野尻・須木・高崎、飯野・加久藤・吉田・馬関田など所轄の町村を示す。土地の便宜に応じた区名とし、区長等の届出を命じる。
寛永廿年十一月七日 / 冊子 437頁/原整理番号 548
江戸の老中から島津図書頭・新納右衛門佐を通じて異国船警戒の命があったため、四名は沿岸・境目の警固を厳重にし、伴天連らが上陸しても内地へ入れないよう命じる。前年夏に筑前大島で捕らえられ江戸へ送られた南蛮人の陳述を添えて、溝辺・横川・栗野・吉松・吉田・馬関田・加久藤・飯野・須木・小林・高原・野尻・綾・高岡・穆佐・倉岡の衆中へ回覧する。
書上一〇六正保三年九月十九日 / 冊子 187頁/原整理番号 106
正保三年九月十九日付、山奉行所から吉松・吉田・馬関田・加久藤・小林の郷中への書状。飯野御城山での御狩には衆中が取り計らって参加するよう命じ、日程は飯野と相談して定めるとする。狩奉行は弟子丸右京亮と伊地知主膳正であると追記する。季安は、百姓の狩立を免じ、衆中中心の狩りとなった例と注す。
寛永廿一年六月五日 / 冊子 188頁/原整理番号 108
慶安四年十一月十二日付、敷根から馬関田まで十六か所の郷中への達書。鹿皮と猪の代銀を急いで行司に上納させるよう命じ、遅延が続けば処分すると警告する。
寛永廿年二月廿九日 / 冊子 229頁/原整理番号 171-3
同じ留帳の二月二十九日付の報告。馬関田・吉田・吉松・加久藤の人々が相談し、牧の周囲で狼狩を行ったところ、雌狼一疋を射止めた。射手や関係者への報告を記す。
寛永廿一年正月十八日 / 冊子 233頁/原整理番号 172-1
正月十八日付の廻状。沢原野の狼垣修理について、加久藤からの申出を受け、垣木を新たに立てる場所と従来の垣を修繕する場所があると伝える。各地に普請を命じ、難しい場合は早急に申し出るよう求める。馬関田・吉田・吉松・栗野・横川など関係諸所へ回す文書。
正保三年正月十一日 / 冊子 241~242頁/原整理番号 174-2
正保三年正月十一日付の達書。狼垣の見回り役として竹内権左衛門尉ら五人の名を挙げ、四日から十日にかけて交代で見回る手順を示す。見回り後は馬関田から連絡し、修繕の相談を進めるよう求める。
正保三年三月廿六日 / 冊子 243~244頁/原整理番号 174-9
正保三年三月二十六日付の書付。加久藤で新たな役席が設けられる際の座次や、飯野・馬関田など近隣諸所との関係をめぐる異議と相談を記す。従来の取決めや過去の例を挙げ、関係者間で確認して裁定するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 365頁/原整理番号 69
大口から堂崎の通路へ陣を取り、深水三河守を大将に野伏を掛けたことを記す。伊東方が馬関田などの村を焼いた状況を述べ、島津側は飯野へ加勢するふりで伏兵を置こうとしたが、大雨で作戦が進まなかった。田中河内の伏兵では川上丹波守らが戦死した。長陣による疲労と損耗を受け、日新が和睦を勧め、感應寺を介した調法が行われたという。
現行年紀:七月廿四日 / 冊子 68頁/原整理番号 103/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0103
真幸院馬関田を退治するため親春を差し向け、陣を取ったと述べる。 敵城の状態についての知らせと、前頼方から田中将監を介した退治の見通しを記す。 そのため尾張次郎を重ねて遣わし、相手の勢を送られたいと求める。 攻陣を来月三日に定める。また、今日は諏方祭礼のため麑嶋へ赴き、神事後に早く帰る予定を知らせる。
現行年紀:八月廿一日 本文中の参照年紀:去十二日 本文中の参照年紀:同十六日 / 冊子 100頁/原整理番号 168/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0168
畠山三郎殿が肥州から下向し、郡内の人々と相談して十二日に真幸院へ進んだと報じる。 十六日に氏久の手勢が籠もる馬関田城へ進陣し、数か所を取ったと伝える。 宛先側の協力と早い庄内進発について計策を求める。
現行年紀:八月廿二日 本文中の参照年紀:去十二日 本文中の参照年紀:同十六日 / 冊子 100~101頁/原整理番号 169/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0169
畠山三郎殿大将が十二日に当院へ進み、十六日に馬関田城へ押し寄せて合戦中と伝える。 院内の状況を知らせ、今後の連絡と同心を求める。
現行年紀:八月廿二日 本文中の参照年紀:去十二日 本文中の参照年紀:同十六日 / 冊子 101頁/原整理番号 170/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0170
畠山三郎殿の下着を受け、郡内で相談し、十二日に真幸院、十六日に馬関田城近くへ陣したと伝える。 数か所を取り、なおその界の事について宛先の対応を求める。 公方についての話と別の合力に触れ、詳細は教久を介して尋ねるよう述べる。
現行年紀:八月廿二日 本文中の参照年紀:去十二日 本文中の参照年紀:同十六日 / 冊子 101~102頁/原整理番号 171/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0171
畠山三郎殿の真幸院への出発に球广郡が一同して供をし、十二日に院へ越え、十六日に馬関田城を取巻いたと伝える。 宛先側の合戦の次第を知らせて談合すること、以後も不審を連絡することを求める。
現行年紀:八月廿二日 本文中の参照年紀:去十二日 / 冊子 102頁/原整理番号 172/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0172
郡内の人々が畠山三郎殿の供をし、十二日に真幸へ着陣し、近陣数か所を取ったと伝える。 敵陣を馬関田と記し、宛先側の対応による大隅への発向と、その時の対面に触れる。 同心を求める。
現行年紀:八月廿二日 / 冊子 102頁/原整理番号 173/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0173
畠山三郎殿に供をし、郡内の人々が真幸へ越え、敵城馬関田に向かう近陣を数か所取ったと伝える。 その界の事を取り計らうよう求め、同心への期待を示す。