殉国名薮
天正十一年六月~十月 / 冊子 763頁
天正十一年六月から十月にかけて深江・堅志田・隈荘などで戦死した将士と、年月不詳の戦死者を列記した殉国者名録。新納忠嘉・白浜重仲・山内義裁・筑麻左近以下について戦死日や父祖を注記する。
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天正十一年六月~十月 / 冊子 763頁
天正十一年六月から十月にかけて深江・堅志田・隈荘などで戦死した将士と、年月不詳の戦死者を列記した殉国者名録。新納忠嘉・白浜重仲・山内義裁・筑麻左近以下について戦死日や父祖を注記する。
宝暦五年七月二十七日 / 冊子 547~548頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1643
宝暦五年七月二十七日、忠洪の名代の島津淡路守久柄が、御先手小笠原縫殿助持廣とともに老中西尾隠岐守忠尚の邸へ赴いた記事。堀田相模守正亮・松平右近将監武元・忠尚が列座し、大目付能勢因幡守頼次も同席した。忠尚が進み出て、亡父重年の遺領すべてを忠洪へ与え、幼少のため領国および琉球国の政務は継豊が先例に従って取り計らうとの幕命を伝えた。さらにその言葉を紙に書き、久柄へ渡した。久柄は芝邸へ戻って忠洪に幕命を伝え、その足で老中・若年寄各位の邸を訪ね、忠洪のために恩命への謝礼を述べた。小笠原持廣には用頼との元注が付く。出典は重豪公御譜。
〈寛延三年〉九月十一日 / 冊子 285~286頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0820
重年公御譜は、前年の襲統を祝って九月十一日に芝邸で慶宴を設け、元老の松平右近将監武元・秋元但馬守凉朝、若年寄の松平宮内少輔忠恒・戸田淡路守氏房、奏者松平紀伊守信岑・永井伊賀守直陳らを招いたと記す。留守居・大目付・奉行・諸侯など多数の参列者を列挙し、楽人は観世・寶生らが舞曲を奏した。十三日・十六日にも列侯・親戚・諸賓を迎え、奏楽と饗応を行う。十八日は前年冬の元服と従四位下少将任官を祝う宴で、松平土佐守豊敷・佐竹左兵衛督義眞らを招く。日ごとの祝賀目的、出席者、接待と奏楽を記す。
巻八/冊子 117~118頁
家久の長患いと死去、光久の家督相続を記す。寛永十三年以降、家光は久志本式部少輔・慶祐法印・意徳法眼ら医師を薩摩へ送り、さらに上使と鶴を賜って家久を見舞った。家久は病床で、徳川三代の厚恩に死節で報いることができない旨を土井利勝へ伝えさせる。寛永十五年、島原・天草一揆の討伐を命じられた光久は有馬まで赴くが、松平信綱から父の看病のため帰国するよう勧められ、鹿児島で父子再会を果たす。その後家久が死去すると、家光は能勢頼次を弔使として銀千枚を贈る。喪中の光久は江戸へ赴き、土井・酒井・阿部らから家久の分国をそのまま相続するとの上意を受け、家臣団にも光久をよく補佐するよう命が伝えられた。光久は正宗・貞宗、後鳥羽院らの和歌懐紙、瀬戸肩衝など父の遺物を家光へ献じる。幕府の医療・弔慰と島津家の代替わり儀礼を詳述する。