伊地知季安覚書
文政10年正月3日・3月 / 冊子 347頁/原整理番号 130-35
文政十年正月三日、伊地知小十郎季安が、高岡郷士年寄の河上次郎左衛門が持参した系図文書を二日間借り置いて写したことを記す覚書。季安の九世祖・美作守重常の妻がこの家の出身であるため写したと説明し、中表紙には『羽島氏系図文書』、丁亥三月写之と記す。
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文政10年正月3日・3月 / 冊子 347頁/原整理番号 130-35
文政十年正月三日、伊地知小十郎季安が、高岡郷士年寄の河上次郎左衛門が持参した系図文書を二日間借り置いて写したことを記す覚書。季安の九世祖・美作守重常の妻がこの家の出身であるため写したと説明し、中表紙には『羽島氏系図文書』、丁亥三月写之と記す。
年月日不記(天正八年・文禄四年などは系図内記事) / 冊子 642~644頁/原整理番号 116
平姓祢寝氏の略系図で、重盛から高清・沙弥行西・清重へ続く系線を示す一方、清忠から重弘までの間に十五世を欠くと明記する。重良の条には文禄四年に祢寝を去り、吉利村三千二百石を賜って移ったとあり、重常は姉とともに近衛信輔の薩州からの帰京に従い上洛したと記す。後代の清雄は家老職に任じられて役禄二千石を賜り、島津大蔵久春の二男・清香と三男・清行については、吉貴の命で清行が清香の養子になった経緯を載せる。清行が表御用人や大御番頭を務めた記事も記す。
元弘・建武年間、天文2年(頭注:天文3年8月14日なるべし)、天文23年9月晦日 / 冊子 173~175頁/原整理番号 54
三原氏の系図。大職冠流の遠江守経重の男・経義から経俊へ続け、経義を三原兵部太夫とする一方、菊池領主将監則隆の三男または太郎経隆の四男とする異説も掲げる。後醍醐天皇から三原城を与えられた経俊が筑後国三原城に居住して氏としたと記すが、元弘・建武期の人物とすれば世代数が長すぎるとの考証注を付す。経重・為重・直重、正重・延重、朝重・正重・経由、重尭・重武・重国など多数の系線と官途を列挙する。後代の直重は藤八郎・左衛門督・入道泰安を称し、その代に初めて薩州へ下り、子孫は伊作家に仕えた。各系には枝岸・桜岸・渭釣・閑林・即心・無塵・雪領・青山などの道号・法名を付す。重秀は天文二年に永吉で戦死したとするが、頭注は天文三年甲午八月十四日であろうと訂正する。重益は日新・貴久・義久の加判に列し、法名昌安。末尾の重次は天文二十三年九月晦日に帖佐岩剣で戦死した。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
年月日未詳 / 冊子 336頁/原整理番号 21
伊地知重政の申状が、第五代小次郎松元は重政へ改名し、本来は伊地知美作守重常、法名は光林澤公居士と記す。伊集院内の須木城の主として在番し、渋谷方の敵である蒲生勢が吉田城へ現れたため、麓の川原へ出て戦った。その時が大刀を用いる戦いの始まりであったという。