長谷場越前自記
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
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永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 224頁
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
年月日未詳 / 冊子 776頁
島津久元が弓術を本郷義則・東郷重尚、犬追物を川上久慶、馬術を島津義弘と荒木元満に学び、免状・馬書・手綱秘奥・印可を受けたことを記す。さらに鷹術を義弘に、茶を景活火から老湯の法まで学び、武芸と茶道に通じた経歴を述べる系譜記事。
元亀元年 / 冊子 230~231頁
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金の献上、福昌寺領寄進、将軍から義久への御内書・太刀下賜を記す。
寛永15年正月20日 / 冊子 764頁/原整理番号 816
谷山衆有馬氏所蔵の、寛永十五年寅正月二十日肥前天草立人数の名簿。西田貞右衛門、有馬千兵衛純堯、東郷長左衛門重尚らの名を列記し、東郷長左衛門内の吉利覚右衛門も載せる。夫丸を含む総人数の集計はない。
延応元年8月11日、明和3年仲冬、寛永11年3月、天和元年11月12日、慶安元年閏正月24日、元禄2年、宝永6年7月13日、正徳元年10月9日、享保20年閏3月21日・23日、宝暦9年閏7月29日、宝暦7年4月12日、安永2年9月9日、安永7年正月11日・9月11日、天明2年正月11日、天明6年5月13日、天明7年5月27日 / 冊子 34~38頁/原整理番号 11
宮之原主膳通直家の略系図。『宮之原家譜』などを引き、畠山重忠の四男重俊、その子重弘が延応元年八月十一日に日州飫肥の宮之原へ下着し、地名を家号として諸県郡北郷を領したという由緒を掲げる。一方、重氏以前は系譜が欠け、古譜・文献にも確証がないため、伝承する「重」の一字を根拠に重氏を始祖としたとの考証を、明和三年に司譜官・息長清純が記す。重尚は福山氏からの養子で島津綱久の近習を務め、剣鱗紋を拝領した。重陳を経て江田国重の三男・重行(通貫)が婿養子となり、近習・船奉行・使番・御用人・山川地頭・組頭・勘定奉行を歴任する。通興は奥御小姓、郡奉行、高奉行、使番、江戸留守居、近習、側御用人、寺社奉行を務め、野田・大根占・頴娃の地頭となった。通直は目付・使番・御用人・寺社奉行・大御目付を経て、市来・伊作・高岡地頭、御勝手方家老・表家老に進み、天明七年に隠居した。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
年月日不記(天正二年・文禄二年・慶長五年などは各代の記事) / 冊子 649~652頁/原整理番号 119
藤原姓本城氏の系図。源七郎忠仍は世継ぎのない東郷重尚の養子となって東郷氏を称し、朝鮮出兵に従った後、本姓に復したと記す。島津豊久が関ヶ原で戦死すると、家久の命で忠直が後継に定められたが、忠直の病と家の断絶を受け、女子と喜入家の男子との縁組で豊久の家をつなごうとした経緯を載せる。子孫には東郷家と本城家のいずれに属するかをめぐる議論があり、忠頼は祖父忠直の隠居地・父忠清の出生地を由緒として東郷を改め、菱刈本城を称したという。佐土原・菱刈本城などの居住、島津光久への太刀献上、女子の婚姻や家督の継承も記す。
年月日未詳 / 冊子 308~309頁
弘安四年六月二十九日に入来院平四郎有重が戦死し、同院平四郎太郎重尚も傷を負ったことを記す。鎌田尾張守清憲が元軍を追った博多の戦いと関連づける短い殉国記事。