寛明日記
年月日未詳 / 冊子 329~330頁/原整理番号 300
十二日、島原城から足軽大将十八組を出し、三会村内の杉谷米蔵から兵糧を取り入れようとした。一揆勢が山上に旗を立てて構えたため作業は進まず、十三日条へ続く。
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年月日未詳 / 冊子 329~330頁/原整理番号 300
十二日、島原城から足軽大将十八組を出し、三会村内の杉谷米蔵から兵糧を取り入れようとした。一揆勢が山上に旗を立てて構えたため作業は進まず、十三日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 183~184頁/原整理番号 307-3
水野日向守が二十六日の総攻めの触れを聞き、子の美作守と孫の伊織助に、鬨だけを上げて控えるのではなく先手として働く覚悟を問う。美作守は、伊織助の初陣でもあり、軍法に背くことになっても先手が乗り込むのを見物することはできないと誓う。日向守は家老・組頭・足軽大将・武者奉行・旗奉行・馬印奉行らを呼び、鍋島勢が塀へ攻め掛かって損害を受け人数が減る時を見計らい、後方から二の丸へ押し入り本丸を第一に乗り取る作戦を命じた。本丸を落とせなければ自分を駕籠ごと塀内へ投げ入れよと述べ、父子討死の覚悟と若者の奮戦を促し、旗・馬印奉行の心得を特に重視した。しかし二十四日夕方から車軸を流す大雨となり、触れを出すまでもなく攻城はいったん中止された。
年月日未詳 / 冊子 332頁/原整理番号 307
十三日、兵糧を取り出すために出た島原方の人数が敗北し、足軽大将ら多数が討死した戦況を記す。翌十四日には四郎時貞が五千人を率いて天草へ渡海し、上津浦へ加勢した。
年月日未詳 / 冊子 331~332頁/原整理番号 304
島原の杉谷で松倉衆が一揆勢に追い立てられ、鉄砲を取り逃がした者を処罰した経過を記す。城中へ鉄砲・玉薬を入れ、狭間を守り、杉谷の米を城へ取り込む備えを立てたうえで十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 340頁/原整理番号 33
十三日の辰刻から午刻にかけて、川辺・鹿児島の足軽が脇元の人家を焼き、出てきた敵を痩五郎坂で迎えたと記す日記。味方の足軽大将は梅北宮内左衛門と宅間与八左衛門で、川辺衆が交替して戦い、兄弟の隊も坂口へ向かった。敵が八つの群れで登るとの報告を受け、谷山衆などが弓で坂を追い下して、味方は支障なく引き上げたという。
年月日未詳 / 冊子 396~397頁/原整理番号 124
高原城攻略を述べる自記。天正四年、高原を急いで攻めると決まり、小林・温水・三山へ軍勢を置いて野尻の側から進んだ。義久・忠平の三万余騎と、一雲の八千余騎が出勢し、八月十六日に高原を包囲して火矢を射た。柏原将監が橋で防戦する中、新納刑部太輔は小楯を持って城戸口へ突入し、多くの傷を受けながら打刀で戦って退いた。名を尋ねた足軽大将漆豊前介が勇士として称え、他の薩摩の兵も高名を立てたという。
年月日未詳 / 冊子 397~398頁/原整理番号 125
天正四年、近衛龍山の下向に伴う歌会へ忠元も召されたことに続き、高原城攻略の働きを記す。八月十六日の戦いで二十三歳の忠堯は小楯を持ち打刀で突入し、首を得たが多くの傷を負った。十八日の落城時、足軽大将漆豊前介がその名を尋ねて勇士と称えた。高原の落城後は三之山・温水・須木など七城が退去し、忠元は勝利の祝いに参じ、太刀を進上した。