池田貞安覚書
年月日未詳 / 冊子 99頁
豊後出陣の折、堅志田で池田貞安の父・六左衛門が敵を討ち取ったところ、上野半助との間で首の帰属をめぐる争論が起きた経緯を記す。両者は各自の分捕首を御前へ差し出し、親六左衛門の説明を受けた両殿から感賞された。戦功認定、首実検、褒賞の実態を具体的に示す覚書である。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
8 件 (全巻)/ 1–8件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 99頁
豊後出陣の折、堅志田で池田貞安の父・六左衛門が敵を討ち取ったところ、上野半助との間で首の帰属をめぐる争論が起きた経緯を記す。両者は各自の分捕首を御前へ差し出し、親六左衛門の説明を受けた両殿から感賞された。戦功認定、首実検、褒賞の実態を具体的に示す覚書である。
年月日未詳 / 冊子 99頁
島津義弘が豊後から退く際、阿蘇地越で川上四郎兵衛が乗物の前を進み、池田貞安の父・左衛門が後方に付き従ったとする短い覚書。撤退時に主君の乗物を誰が前後から警護したかを伝える点に特徴がある。
記事 / 冊子 460頁
池田貞安が、島津久保の小田原出陣時に木村主殿佑・親六左衛門とともに御馬の別当を命じられ、供奉したことを記す覚書。 久保軍中での馬匹担当者と役割分担を具体的に確認できる。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津久保が朝鮮で死去したため、池田貞安の父・六左衛門がその遺骸に付き添って鹿児島へ帰り、さらに遺骨を高野山まで供奉したことを記す。 久保の遺骸・遺骨が朝鮮から鹿児島、高野山へ運ばれた経路を端的に示す覚書。
年月日未詳 / 冊子 410頁
池田貞安が庄内出陣時の戦功を回想する。帖佐・蒲生勢が山田新城を攻めた際、六左衛門は退却命令に対し、味方を捨てれば周辺の敵城から攻撃され全滅すると再三諫めた。中将様がその主張を採用して旗差・道具衆・軍勢を一斉に登らせ、新城と続いて本城を攻め落とし、惟新が伏見で報告を聞いて有川助兵衛から感状に相当する内談の書状が寄せられたという。
年月日未詳 / 冊子 410~411頁
池田貞安が、軍代の平田太郎左衛門が七月十三日に山口へ向かった際の戦闘を記す。池田・山口大蔵・大井五兵衛・青山利兵衛の四人が案内役を命じられたが、志和地・野々美谷・安永・高城などの敵が城から出撃したため苦戦して山田へ退き、その遠目塚で旗差を庄内方に奪われたという。
年月日未詳 / 冊子 411頁
池田貞安が、黄門様が初めて山田城へ布陣した際の出来事を記す。安永の中霧島で伏兵に遭い、手回りの者が多数討死して人数不足となったため、森田の陣にいた池田も山田へ召し寄せられて奉公したという。
年月日未詳 / 冊子 261~262頁/原整理番号 106
『系図抄』として上原康基を起点に、康忠・貞安・康時・惟康・康宗・尚康・尚宗・康続以下の諸流を縦系図で示し、各人の官位・官途・法名を付記する。康基は右衛門督・蔵人頭・従五位上、康忠は右兵衛督・長官・蔵人・従四位上、貞安は右兵衛督・従四位上とし、尚康を兵部少輔・従五位上・法名大全、尚宗を刑部大輔・従四位上・安房守とする。信康は若狭守・法名窓鑑で「始遷薩州」と記され、康純は大学頭・大和守で日州へ移住したとされるため、上原氏祖系の薩摩・日向への移動を示す。後段には治尚・尚定、安成・安常、行安・康高・康将、康元・康輔・康保、康衡(号尚永)などを掲げ、尚弘を上原美作守、尚重を上原清右衛門と明記し、尚純(主税助)を含む末流へ続ける。