鮫島蓮道請文
元徳二年後六月廿五日 / 冊子 579頁
諸三郎丸が山田・上別符両村地頭職の安堵を求めた件について、嘉暦四年五月二十三日付御教書と七月十一日付命令を確認し、日本国中の神仏に誓って回答した鮫島蓮道の請文。
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元徳二年後六月廿五日 / 冊子 579頁
諸三郎丸が山田・上別符両村地頭職の安堵を求めた件について、嘉暦四年五月二十三日付御教書と七月十一日付命令を確認し、日本国中の神仏に誓って回答した鮫島蓮道の請文。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。
文和四年十一月五日 / 冊子 261~262頁/原整理番号 26
島津師久が、父道鑑の所領である薩摩国楠木野城に三条侍従・市来氏家・鮫島蓮道・知覧忠世らが九月二日に攻め寄せ、五日間の合戦で敵を捕らえ追い落としたことを申告する目安状。九州宮方の蜂起と一色の長州越えに伴う戦況を述べ、十月十二日の和泉庄側の攻撃では自身が三か所、伯父尾張守資忠が右腕に負傷し、守護代酒匂らが戦死、ほか百余人が負傷したと訴える。道鑑は中風で難儀して詳しい報告ができないとして、敵方の延引を避け両御所の命による出陣を求め、さもなくば国を捨てて参洛すると申し上げる。
貞和二年十一月廿一日 / 冊子 772頁
足利直義が、薩摩国合戦で大隅助三郎入道道忍・鮫島彦次郎入道蓮道らが凶徒に与同し、淀谷一族らが陣を捨て帰宅したことを問題として、不参者の所帯没収を含む厳重な催促・討伐を島津上総入道へ命じ、一色範氏の指揮に従わせた軍勢催促状。
年月日未詳 / 冊子 776頁
幕府の教書を受けた島津貞久が、伊集院道忍・鮫島蓮道らの追討のため重久篤兼に軍勢催促を命じたことを掲げる重久篤兼譜の記事。
明治3年正月(日不記)知政所(年は朱書) / 冊子 726~729頁/原整理番号 947の3/整理ID 947-3
年頭規式手当として、朔日前日に御書院庭上へ天朝・神祇の遥拝席二所を設け、敷物・畳三枚・屏風三帖・蓮道・八足机・灯火・神酒洗米等と、道具方・神社奉行・出納奉行・家令侍直長の担当を定める。五社や鶴嶺花尾郡山への幣帛料銭五十疋、服装・登城差引・門開等も記す。続く二丸在国病気時の別式は、社名、代参献幣使、初穂五十疋、二日・三日の対象別祝儀申付先を分ける。末の職制は神社奉行を別に設けず神事惣判を執政へ委ね、神事調役を五等官書記次、助を七等官書記見習次とし、神社奉行の副役・見習と神社方筆者を廃す。以後の神社方申出を伝事に委ね、職制書別紙の通り改めたとの但書を附す。朱明治三午正月知政所。三内容区分を一行に保持し、実設営・出席・費用支出・全職員任免完了や病名を補わない。