新納忠元勲功記
永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
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永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
永禄四年十月二日 / 冊子 99頁
島津貴久が菱刈大和守重猛の望みにより、大隅国栗野院百二十町を先例どおり知行するよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津実久の子女と婚姻、将軍から偏諱を受けて陽久・義利から義虎へ改名した経緯、忠継が大田忠綱の養子となったことなどを記した薩州家系図抄。
年月日未詳 / 冊子 360~361頁/原整理番号 64
菱刈重猛が伊東方と結び、三之山城が攻められた後、幼い鶴千代の所領処分を相談したことを記す。内応が続いたため島津方が飯野から馬越へ夜襲し、井手籠一族を討ち取る際、忠元も働いた。菱刈方は八城を放棄して大口へ退き、島津方は守備隊を配置した。大口は相良の加勢を得て市山へ攻め、守将らが討死した。忠元は大中から守備を命じられ、所領も受けたが、市山へ軍勢を移す下知が出た時の難儀も記す。
年月日未詳 / 冊子 374~375頁/原整理番号 83
菱刈重猛が伊東方と結び、重猛の死後も重任が幼い鶴千代を奉じて侵攻したと記す年譜。貴久は飯野から兵を出し、馬越を夜襲して井手籠一族二百余級を得た。忠元も槍で四人を討ち、貴久らは落とした八城へ兵を配置した。相良義陽の加勢を受けた菱刈方との戦いで、市山の守将らが戦死した。忠元は馬越から市山の地頭に移され、蒲生に采邑を与えられ、所属兵を率いて奉公したという。
年月日未詳 / 冊子 358頁/原整理番号 60
菱刈家の継承と島津への内談から、大口・馬越をめぐる争いまで記す。菱刈側は新知行の所領を献上する約束をしたが、求麻との境界や大口の住民の用心について相談した。貴久が飯野へ向かった後、兵庫頭・新納・肝付らは菱刈へ先に派遣され、伊東への内通を知って馬越を攻めた。羽月・平泉・山野との通路と守備を確保し、羽月は島津方へ進上された。終わりには番替と帰還、絶通路にしたことを記す。