記事元弘二年
年月日未詳 / 冊子 598~599頁
元弘二年、北条高時が後醍醐天皇を廃して隠岐へ流したことから倒幕へ至る経過を記す記事。大塔宮護良親王・楠木正成・赤松円心・足利高氏・新田義貞らの挙兵、六波羅・鎌倉の攻略と北条氏滅亡を述べ、島津氏関係者の軍事行動にも触れる。
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年月日未詳 / 冊子 598~599頁
元弘二年、北条高時が後醍醐天皇を廃して隠岐へ流したことから倒幕へ至る経過を記す記事。大塔宮護良親王・楠木正成・赤松円心・足利高氏・新田義貞らの挙兵、六波羅・鎌倉の攻略と北条氏滅亡を述べ、島津氏関係者の軍事行動にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 614頁
元弘三年春、後醍醐天皇が北条高時追討を命じ、足利高氏が六波羅、新田義貞が鎌倉、楠木正成・赤松円心らが各地で戦った経過を記す重久篤兼の譜記事。七月、篤兼が軍忠のため馳参し、恩賞の披露を求めたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 637頁
北条時行追討のため足利尊氏が関東へ下向し、新田左兵衛督義貞が追討軍として進発した建武二年の情勢を記す島津道鑑譜。尊氏が箱根で勝利し鎌倉へ入り、義貞勢との矢作川・東海道の戦闘を経て京都へ進んだ経過と、島津道鑑らの軍勢参加を述べる。
建武二年十一月二日 / 冊子 638頁
謀叛人新田左衛門佐義貞を追討するため、渋谷新平二入道に一族を率い、日を置かず鎌倉へ馳せ参じるよう命じた足利直義軍催促状。
年月日未詳 / 冊子 638頁
京都にいた尊氏・直義の追討、新田左兵衛督義貞の東山道進発、大智院宮・弾正尹宮・土大将らの軍勢配置、島津上総入道貞久の従軍などを記す『太平記』の記事。
年月日未詳 / 冊子 638~639頁
前年の鎌倉攻めで伊東祐広ら一族が従軍したことを記し、建武二年の尊氏・直義追討、義貞の東坂本進軍、島津道鑑らによる博多の探題英時攻撃、光厳帝・後醍醐帝・足利方をめぐる軍事情勢を述べる『在同十五巻』の記事。
年月日未詳 / 冊子 640頁
大宰少弐頼尚が、新田義貞追討のため杉左衛門次郎保有に軍勢催促を行い、一族を率いて参会するよう命じた教書とその施行を記す伴忠重伝。
建武二年十二月廿三日 / 冊子 640頁
新田右衛門佐義貞追討のため、一族以下の軍勢を率いて日を置かず参会するよう杉左衛門次郎入道に命じた少弐頼尚施行状。
年月日未詳 / 冊子 641頁
建武二年十二月廿六日、大宰少弐から富光九郎道貞に、新田義貞追討の教書を施行したことを記す記事。
建武二年十二月廿六日 / 冊子 641頁
新田右衛門佐義貞追討のため、一族以下の軍勢を率いて日を置かず参会するよう富光九郎道貞に命じた少弐頼尚施行状。
年月日未詳 / 冊子 645~646頁
建武三年正月の京都合戦で尊氏方が不利となり丹波・摂津へ退いた後、九州へ渡って菊池武敏らを多々良浜で破り、諸将を従えて再進攻する経過を記す島津道鑑譜。新田義貞・楠木正成・細川氏らの動向と、島津・伊集院・本田氏らの軍功を挙げる。
建武三年正月廿五日 / 冊子 648頁
新田右衛門佐義貞の謀叛に関する前年の関東御教書を受け、肝付八郎兼重以下が日向国各所で挙旗したため、守護代・島津庄惣政所の申請により羽月四郎右衛門尉元貞を派遣したことを述べ、廣武又次郎入道に一族を催して急ぎ現地へ馳向するよう命じた少弐貞経軍勢催促状。
建武三年三月十五日 / 冊子 652~653頁
新田義貞党類追討のため、島津忠兼に一族を率いて近日中に京都へ発向し、合戦の忠を尽くすよう命じた石橋和義軍勢催促状。
建武三年三月廿六日 / 冊子 655頁
新田義貞の与党追討について院宣を受け、肝付八郎兼重以下の凶徒が横城郭に籠るため島津上総入道道鑑を派遣したとして、重久篤兼に軍忠を尽くすよう命じた足利尊氏軍勢催促状。
年月日未詳 / 冊子 660頁
後醍醐天皇方の新田義貞が鎌倉を攻めた後、足利尊氏・直義が筑紫へ下り菊池勢を破り、島津道鑑らを薩摩・大隅の新田党追討へ派遣した経過を記す調所敦恒伝。島山修理亮直顕らを日向にも派遣したこと、筑紫からの帰国過程を述べる。
建武三年四月五日 / 冊子 661頁
新田右衛門佐義貞与党以下の凶徒追討について院宣があり、調所彦三郎に一族を率いて軍忠を尽くすよう命じた足利直義軍勢催促状。
年月日未詳 / 冊子 675頁
北条高時滅亡後の足利尊氏・新田義貞の対立から、越前国金崎城攻めに至る川上氏の軍歴を記す川上頼久伝。尊氏の使者高師泰の金崎城攻撃、足利直義による本田次郎左衛門尉久兼・比志島彦三らへの恩賞・宛行、敦賀郡での軍勢活動と子孫系譜を述べる。
年月日未詳 / 冊子 710頁
延元元年三月、新田義貞が京師を発し、赤松則村の籠る白旗城を遺右衛門佐脇屋義助らに攻めさせたことを記す大日本史の記事。
建武三年二月四日 / 冊子 58~59頁/原整理番号 291
薩摩国祁答院の富光九郎道貞が、日向国諸県郡八代で新田義貞方の伊東藤内左衛門尉祐広らを討つため、正月廿九日から城攻め・合戦に加わり、土持七郎らと戦功を挙げたことの証判を求めた軍忠状。建武三年二月四日付。
建武三年三月十日 / 冊子 61頁/原整理番号 297
足利尊氏が、新田義貞与党の誅伐を命じた院宣に基づき、菊池武敏・武直らの敗走後も城郭を構える伊東祐広・肝付兼重を、島津庄惣政所代と談合して討つよう土持新兵衛尉へ命じた軍勢催促状。建武三年三月十日付。
建武三年正月~二月 / 冊子 325頁/原整理番号 3の5
建武三年、足利尊氏と新田義貞の対立に呼応して肝付兼重・伊東祐広らが挙兵した経過を記す。重久篤兼は正月二十八日に胡麻崎城、二十九日に志布志城を攻め、族人重久祐任が戦死し、家人も負傷したことを載せる。
建武三年三月二十六日 / 冊子 326頁/原整理番号 3の8
足利尊氏が重久篤兼に与えた建武三年三月二十六日付軍勢催促状。院宣に基づく新田義貞与党の誅伐として、城郭に籠る肝付兼重以下の凶徒を討つため島津貞久を派遣したので、軍忠を尽くすよう命じる。
現行年紀:建武三年三月十日 / 冊子 46頁/原整理番号 50/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0050
花押を据えた御教書案(刊本標題は足利尊氏)。新田右衛門佐義貞とその与党以下の討伐について、院宣が下されたと述べる。 祢寢孫二郎殿へ、所々の要害を警固し、近日中に馳せ参じるよう命じる。
元弘三年七月 / 冊子 325頁/原整理番号 3の3
元弘三年、後醍醐天皇の倒幕計画から笠置挙兵、楠木正成の参戦、鎌倉幕府滅亡、天皇還京までの経過を記す。七月、重久篤兼が徴命に応じて出陣し、主将へ着到を報告したことを載せる。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):建武三年丙子二月十八日 記事内参照年紀:建武・延元年間 / 冊子 46頁/整理ID KW1-G000027
足利尊氏が勅命を奉じて北條氏を討ち、義貞との合戦で不利となって播磨州兵庫へ退いたと叙述する。 建武三年丙子二月十八日に大伴氏の船で鎮西へ向かい、筑前州多々良濱湊に着船して宗像大宮司の館へ入ったとする。 小貳入道妙惠・大郎頼尚等が附属する一方、菊地掃部助武俊等は宮方に属し、鎮西でも合戦が続いたと述べる。 建武・延元年間の尊氏の御教書と、直義・師直・直顯・三條侍從等の簡牘を後に掲げるとする。
現行年紀:建武三年三月廿六日 / 冊子 47頁/原整理番号 52/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0052
花押を据えた御教書案(刊本標題は足利尊氏)。新田右衛門佐義貞と与党の討伐について院宣が下されたと述べる。 肝付八郎兼重以下の凶徒が城郭を構えていると聞いたため、嶋津入道道鑒を派遣したとする。 祢寢郡司一族中へ軍忠を尽くすよう命じる。刊本は『旧記雑録前編一』1806号と同文と注記する。
年月日未詳 / 冊子 609~610頁
元弘三年春、足利高氏の丹波篠村での挙兵、六波羅攻撃、京都陥落、赤松氏・千種忠顕らの戦闘、九州探題北条英時の博多での自害を記す島津道鑑の譜記事。島津氏が九州で軍勢を催し、鎮西情勢に対応した動向も述べる。
年月日未詳 / 冊子 642~645頁
建武三年から延元期の島津氏軍歴を『国史』・諸譜・古文書で編年した記事。足利尊氏の京都敗退・九州下向、多々良浜合戦、上洛後の京都・摂津・河内等の戦闘を軸に、島津道慶・貞久、本田左衛門尉、伊集院久兼らの軍功、負傷・戦死、綸旨・軍忠状、所領宛行・守護補任を多数掲げる。
年月日未詳 / 冊子 645~646頁
建武二年末から三年にかけ、大智院宮・弾正尹宮らが尊氏・直義追討軍を率い、尊氏が京都から丹波・摂津を経て九州へ退き、多々良浜で菊池勢を破って再び東上した経過を記す島津道鑑譜。島津道鑑・貞久らの従軍と戦功も記す。
年月日未詳 / 冊子 684頁
比志島孫三郎範経が市来氏等を率いて戦い、九月晦日に討死したこと、莫禰孫五郎貞友も同所で戦死したことを諸記録から考証する殉国名藪の記事。
年月日未詳 / 冊子 705~707頁
建武五年(延元三年)を中心に、島津貞久らの動向と南北朝争乱を編年で記す島津国史の記事。足利尊氏・直義方と南朝方の対立、薩摩・大隅・日向・肥前・越前などでの城攻めと軍勢催促、肝付兼重・新納氏・川上氏・本田氏らの軍功、負傷・討死、所領安堵・恩賞・守護職を、関係文書の日付と発給者を示しながら三頁にわたり詳述する。
寿永2年6月1日、寛永8年、正徳3年、享保元年、享保6年ほか / 冊子 296~298頁/原整理番号 115
神代を略し、藤原鎌足・淡海公から武智麻呂・房前へ分かれる系線のうち、房前・真楯・内麿以下を富山氏へつなぐ系図。義良・義行・義秀・義忠・義兼・義時・義光・義任らから多数の支流を派生させ、伊勢守・土佐助・玄蕃頭・左近将監・藤左衛門尉などの官途、法名、出生・婚姻を記す。義光は五郎太夫、号福殿と称し、寿永二年六月一日に北陸道篠原合戦で討死したとする。また義孝は外記助から法印有受となり正応寺住持を務めた。末尾の貼紙は、この系譜を百年内外のものと見て法印有受の書写かと問い、義般以下では文字がすべて異なると指摘しており、系図本文の成立時期と筆跡差を検討した注記である。
年月日未詳 / 冊子 639頁
建武二年、後醍醐天皇が北条高時誅伐のため諸国武士を召集し、伴兼重・伊東氏らが軍事行動に参加した経緯を記す伝。北条氏滅亡後、光厳帝・後醍醐帝、足利尊氏・新田義貞・楠木正成らの対立へ移り、日向・河内を含む各地の戦局が展開する。
年月日未詳 / 冊子 650頁
建武三年初頭、足利尊氏・新田義貞の対立を背景に、肝付兼重・伊東氏・島津方が日向国胡麻崎城・志布志城などで戦った経過を記す重久篤兼譜。正月廿八日の胡麻崎城攻め、城郭の奪取、追撃、戦死者、家人重久大和房向経の働きなどを述べる。
建武三年三月廿六日 / 冊子 655~656頁
新田義貞与党追討の院宣を受け、肝付兼重以下の凶徒が横城郭に籠るため島津道鑑を派遣したとして、称寝郡司一族に軍忠を尽くすよう命じた足利尊氏軍勢催促状。
建武三年三月廿六日 / 冊子 656頁
新田義貞与党追討の院宣を受け、肝付兼重以下の凶徒が横城郭に籠るため島津道鑑を派遣したとして、別府女子代に軍忠を尽くすよう命じた足利尊氏軍勢催促状。
建武三年五月十五日 / 冊子 665頁
新田義貞与同の益戸弥四郎行政以下が楯籠る石城を追討するため、土持新兵衛尉に一族を率い、早く馳せ向かうよう命じた畠山直顕軍勢催促状。
建武三年二月七日 / 冊子 60~61頁/原整理番号 295
土持宣栄が、新田義貞方の伊東祐広らによる穆佐院攻撃に対し、一族とともに建武二年十二月末から翌年二月まで各地で戦い、肝付兼重方の城攻めや合戦で自身・子息・若党が負傷した軍忠を申告し、証判を求めた文書。建武三年二月七日付。
建武三年五月十二日 / 冊子 61頁/原整理番号 299
畠山直顕が、土持新兵衛尉らが五月十日に新納院岩戸原彦尾で、新田義貞方の益戸弥四郎行政・益戸四郎兵衛尉秀名・石河内弁済使以下と合戦して忠節を尽くしたことを賞した感状。建武三年五月十二日付。
建武三年五月十五日 / 冊子 61頁/原整理番号 300
畠山直顕が、石之城に立て籠もる新田義貞方の益戸弥四郎行政以下を誅伐するため、佐伯備前権守とその一族らとともに同城へ馳せ向かうよう土持新兵衛尉へ命じた軍勢催促状。建武三年五月十五日付。
建武三年正月廿五日 / 冊子 333頁/原整理番号 97
少弐貞経が、新田義貞への対応と日向国で義貞に同意した肝付兼重らの動向を述べ、軍勢を集めて追討するよう廣武又次郎入道に求める。建武三年正月二十五日付の軍勢催促状。
(寛文十年)八月廿三日 / 冊子 567~568頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1344
島津久通が、日本通鑑編纂に際して林春斎に示した島津家関係記事の訂正意見を記した覚書。源頼朝から薩摩・大隅・日向を与えられたとの家伝、太平記にみえる鎌倉で新田義貞方へ降参した島津四郎の比定、朝鮮で軍振るわず改易された島津又太郎を豊臣譜が島津又七郎とした誤りの三点について、誤記が通鑑に残れば島津家の悪名となるため訂正を求めた。
建武三年三月二十九日・四月十四日 / 冊子 326頁/原整理番号 3の9
建武三年三月二十九日、足利尊氏が島津貞久に教書を与えて大隅・薩摩の警固を命じたことを記す。四月、肝付兼隆らが加世田城に拠って新田義貞方に属したため、十四日に島津貞久が重久篤兼へ速やかな出兵と討伐を命じた。