箕輪伊賀覚書
年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
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年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
天正五年二月吉日 / 冊子 511~512頁
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
年月日未詳 / 冊子 820~821頁
忠恒は十月十四日に壱岐勝本を出帆し、強風を受けながら対馬府中へ到着して池田紀伊介の宿に入った。二十六日に対馬皇浦を発ち、同日夜に釜山浦へ着くと、翌日には白浜次郎五郎らを早舟で唐島へ送り、到着を義弘側へ報告した。 二十八日には唐島から樺山権左衛門・喜入摂津守らが迎えに来た。忠恒の朝鮮渡海を日付・風向・宿泊地・使者・迎船まで詳しく記す航海記事。
(慶長十四年)四月十六日 / 冊子 217頁
四月十六日、近衛信尹が喜入大炊助に、諸式を急ぎ整え、来月晴天となれば上る予定を伝え、飯牟礼紀伊介・貴嶋采女からの進上物を披露した書状。
年月日未詳 / 冊子 834頁
天文十五年二月十八日・四月二十三日などに、日向飫肥その他の戦場で戦死した島津方の武士を列記する。
年月日未詳 / 冊子 776~777頁
樺山玄佐が鹿児島麓の人々の移動と島津貴久方の勢力拡大を記す。貴久が伊集院上之山へ進み、東福寺・生別府方面へ軍を展開した後、市来・串木野の支配替え、城攻め、村田・伊集院・新納・多田諸氏の家臣配置と戦功処置を進めた。
天正十二年六月二十二日 / 冊子 897~899頁
高橋紹運・戸次道雪が大友方へ、隈部氏の処遇を喜びつつ筑後攻略を急ぐよう進言した長文の連署状。秋月種実や鍋島直茂側の言説は島津方への援軍を遅らせる計略の恐れがあるため警戒し、黒木・山下方面を先に制圧して諸将の去就を見極めること、豊前の調略、陣中警固と水軍整備を徹底することを求めた。
年月日未詳 / 冊子 22~37頁
上井覚兼が天正十三年三月のほぼ一か月を日次で記した日記。寺社参詣や勤行、島津義久への出仕、家臣・僧侶・使者の来訪、書状と贈物の往来に加え、所領・境界争論の聴取、訴訟関係者の召喚、家中の談合など行政実務を詳しく伝える。一方で茶湯、連歌・酒宴、花や香を取り出して優劣を論じる遊興、酔客の振る舞い、病人への薬や医師の対応までが同じ日々の中に記される。月後半にも来客の饗応、武州・吉利殿らとの会談、荒神参詣、贈答が続き、覚兼が政務・信仰・情報収集・人的交際を絶えず調整していた実像が見える。戦国期島津家中の日常生活と裁許の双方を追える貴重な記録。