島津国史
年月日未詳 / 冊子 287~288頁
応永二十一年正月、伊集院頼久方が小山田範清の小山田城を攻撃したことから始まる戦役。鹿児島・東福寺城周辺で久豊方が反撃し、比志島・蒲生諸氏も交戦した。戦後は島津久世との和解を進め、城・所領の処置を整えるまでの経過を記す。
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年月日未詳 / 冊子 287~288頁
応永二十一年正月、伊集院頼久方が小山田範清の小山田城を攻撃したことから始まる戦役。鹿児島・東福寺城周辺で久豊方が反撃し、比志島・蒲生諸氏も交戦した。戦後は島津久世との和解を進め、城・所領の処置を整えるまでの経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 1頁
弘治元年の島津氏関係事績を編年で記す。正月、北村で島津勢が敵の伏兵に遭い歳久が負傷し、溝辺では鉄砲で六人、太刀で一人を討つ。三~四月に帖佐本城・新城・山田を攻略し、七月には蒲生・渋谷勢と戦う。九月、伊東義祐が飫肥へ侵攻し、白濱城・白井城が陥落、新納忠正・忠照が戦死。十月の改元、琉球王尚清の死去も記す。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 339頁/原整理番号 31
肝付兼演が加治木で祁答院良重・蒲生範清らと対抗するため、蒲生方の西俣盛家を岩剣城の守りに置いたと記す。八月に加治木へ攻め寄せると、九月には大中と義久が救援に出た。忠元が脇元付近の放火に応じて痩五郎坂で戦い、高名を挙げたという。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁/原整理番号 25
大中様が清水にいた時、入来院・東郷・祁答院・肝付・蒲生の諸城主が謀って背き、吉田城を取る計画で忠元らを在番させたと記す。在番中はたびたび戦い、興慶寺前では忠元が大太刀で先に進んだが、馬場某も先陣を争った。敵方にも大太刀を持つ者がいたため、どちらが一番だったかを調べたという。このほか数年にわたって戦ったことを、六年弓箭と呼んだとしている。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 26
貴久が清水にいた時の吉田城合戦を漢文で記す。諸城主が背反したため、忠元・三原・山田・宮原・長野らを吉田攻めに出した。三月十七日に敵兵を退け、四月八日には興慶寺前で大戦となり、忠元は大刀を持って敵を攻め、上原長門らと敵将を追った。馬場某も奮戦して功を争ったが、忠元は大刀を持つ者が先鋒だったと述べたという。
年月日未詳 / 冊子 339~340頁/原整理番号 32
年譜が、天文二十三年に祁答院・蒲生が肝付兼演の降伏に不満を持ち、岩剣城へ西俣盛家らを置いたと記す。貴久と世子義久は九月十二日に出兵して加治木で兼演を救い、忠元も従軍した。十三日に兵を出して脇元へ放火すると城兵が出撃し、痩五郎坂で戦って忠元が功を立て、宮原源太左衛門らもそれを見届けたという。
年月日未詳 / 冊子 340頁/原整理番号 34
勲功記が、弘治元年正月に蒲生・祁答院方が北村の者と謀って偽降し、大中が吉田から北村へ向かった時に不意の合戦となったと記す。敗れて引く中、忠元は大中の大刀を持って防いだが、奪われて弟子丸播磨守らが取り返して討死した。義久も危険な状況にあったため忠元が救援に駆けつけ、引き取られた後に特別の賞を受けた。その難儀は北村歸忠の報告として世に伝わるとする。
年月日未詳 / 冊子 340~341頁/原整理番号 35
年譜が、弘治元年正月に蒲生・祁答院が北村の住民を偽って降伏させ、兵を潜ませたと記す。貴久と世子は二十五日に吉田へ進み、二十七日に北村へ入ると攻撃され、味方は不利となった。忠元は大太刀を持って従い、弟子丸らが引き返して戦い討死した。世子も危険となり、貴久が忠元にその救援を命じ、忠元は奮戦して敵を退けたという。
(建武四年)十月廿九日 / 冊子 699~700頁
加木県城に残る凶徒の追討を比志島彦次郎らへ命じた沙弥誓念書状。十月十八日に軍勢を率いて発向し、北村諸三郎範清の親類右衛門六郎が射られた夜戦、同十九日の城攻め、軍奉行下の軍勢配置を記し、退散した敵を追って軍忠を尽くし後日の恩賞に備えるよう促す。