殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
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年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
正応四年三月十八日 / 冊子 362頁
薩摩国満家院中俣介七郎祐秀代連信の重訴状を受け、相論人を先月十五日以前に博多へ参向させ、期限に遅れれば訴人の申分どおり裁くとして、相論を遂行するよう命じた鎮西奉行連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 730頁/原整理番号 763
前日の昼頃からの大雨で阿部川・大井川が増水して渡れなくなり、供の士相良兵右衛門祐秀が徒歩で試みに渡って瀬踏みしたと記す。詳しくは西藩野史にあると注記する。
年月日未詳 / 冊子 731頁/原整理番号 766
寛永十五年正月十五日と記して、光久が江戸から下向する途中、大雨で増水した大井川に足止めされた際の祐秀の働きを述べる。伊勢兵部少輔が若者に瀬踏みを命じると、二十三歳の祐秀が渡河し、たびたび御前で比類ない働きとして賞されたとする。祐秀は少監物丞・兵右衛門と記され、正文は長倉七郎左衛門に所在するという。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
慶安元年閏十一月九日 / 冊子 139~140頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0252
薩摩・大隅および琉球八重山島の大形絵図の出来を照合し、先に提出したものとの相違や首尾を確認して返答を求めた連署書状。
本文日付:延慶二年九月十二日 本文中の参照年紀:永仁六年十二月二日 本文中の参照年紀:今年八月八日 / 冊子 308~309頁/原整理番号 四三二/整理ID TMP-P02-NENE3-D0432
亡父祐秀遺領である豊前国大野井庄の田所職・田畠・在家等につき、徳政による祐秀跡への帰属と得分親への配分を扱う。 又三郎種秀側の請文は、蓮覺と鍬崎尼讃阿が謀書を構えたと訴陳する。下知は蓮覺の申すところが道理に背かないかとの判断を示し、蓮覺・生千・經弘・讃阿の各田畠在家を列記して知行させる。 讃阿は道意提出の得分親注文から漏れているが、蓮覺提出の系図・和与状により得分親とする。余田・荒野等は嫡子蓮覺に領知させる。
年月日未詳 / 冊子 692頁/原整理番号 718の1
黎明に世子が江戸を出て西国へ急いだことと、家老・使衆・兵具奉行・代官などの随員を記す。右筆がいなかったため伊勢貞昌与力の有川喜左衛門が兼務した。神谷山三郎らは従行を許されず、後から自力で下り大坂で追いついたという。