島津義久譜
年月日未詳 / 冊子 53頁
天正十三年四月二十九日、帰京する上使柳沢新右衛門尉に黄金百両・馬三疋・鷹一連を贈り、五月二日には琉球使僧の船が到着した。七日、肥州大野氏から、豊後軍が筑後の城島を攻めたものの二百人を失って退却したとの軍報が届く。八日には琉球国使僧天王寺と対面し、琉球産の織物・香・器物など多数の献上品を受け、返礼と酒宴を行った。中央使節の送別、九州戦況、琉球外交を連続して記す記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 53頁
天正十三年四月二十九日、帰京する上使柳沢新右衛門尉に黄金百両・馬三疋・鷹一連を贈り、五月二日には琉球使僧の船が到着した。七日、肥州大野氏から、豊後軍が筑後の城島を攻めたものの二百人を失って退却したとの軍報が届く。八日には琉球国使僧天王寺と対面し、琉球産の織物・香・器物など多数の献上品を受け、返礼と酒宴を行った。中央使節の送別、九州戦況、琉球外交を連続して記す記事。
(安政元年)九月廿九日 / 冊子 534頁/原整理番号 5
山田為正が季安に、九月二日の書状を受け取り、来年の下国供奉や上様の病気と床払いを知らせる。草稿は明月記で改めて精査すると述べ、季安の考証を評価する。京都で百練抄・天台座主補任を田尻氏に照会すること、堂上や寺院には成書があるが江戸では得にくいこと、上方への移動と書籍探索の事情を伝える。
(安政元年)九月廿九日 / 冊子 534~535頁/原整理番号 6
季安が山田為正に、田尻氏の探索した百練抄十四冊・神祇官年中行事一冊・槐記八冊、計二十三冊の借覧と京都への返送について謝意を伝える。北陸宮と三宮を分ける伝記の改訂を述べ、玉海の治承四年記事、頼朝の三郎宛教書、仁安二年除夜の出生と住吉の記事、仁和寺了曉の弟子となった年齢を照合する。丹後内侍の安達盛長への嫁入りと範頼の妻の記録についても年月・年齢を検討し、明月記などに基づく推考を示す。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
巻四/冊子 52~62頁
朝鮮征伐の背景と軍役命令、梅北一揆と歳久自殺、薩摩・大隅・日向諸県郡の太閤検地・知行配分をまとめた大部の記事である。冒頭では朝鮮八道の位置・州郡数・地理・物産・中国との関係を説明し、薩摩が朝鮮に近いことを踏まえて秀吉が島津氏へ鉄砲・兵船・兵粮・奉公人を整え、名護屋・壱岐・対馬を経て渡海するよう命じた朱印状を掲げる。義久は病のため渡海を免じられ、義弘と嫡子久保が軍勢を率いて朝鮮へ向かった。その間、梅北国兼が君命を偽って薩隅・肥後の浪人らを集め、加藤清正領の佐敷城を奪うが、統制を欠いて鎮圧される。秀吉は島津氏の関与を疑うものの、家康が義弘父子の在陣や人質提出を理由に弁明し、義久の嫌疑は解かれた。一方、秀吉は過去の不参・祁答院での抵抗などを理由に歳久誅殺を命じる。歳久は鹿児島から祁答院へ向かう途中、竜ヶ水で追撃を受け、家臣百余人と抗戦した末に首を差し出す。遺書は主家への反逆を否定し、自身の死で累代の家を守ろうとする趣旨を述べる。後半では細川幽斎を検使として梅北残党・歳久一族の処分、寺社領・代官勘定・蔵入地の整理を進め、石田三成らが三州検地を実施する。文禄四年の朱印状は薩摩二十八万余石、大隅十七万余石、日向諸県郡十二万余石、合計五十七万八千余石を算出し、太閤蔵入、石田・幽斎知行、義弘・伊集院忠棟・島津右馬頭らの知行、寺社領・給人領を村別石高で配分する。朝鮮出兵が国内反乱・粛清・領国再編へ連動したことを、命令書・遺書・検地帳によって示す重要記事である。
天正十一年四月二十六日~五月二十日 / 冊子 757頁
田尻氏が執事らへ、四月二十六日に龍造寺隆信の陣へ向かって合戦し、筑川の兵五十余人を討って勝利したのは薩摩の守兵が奮戦したためであると報じ、その書状が五月二十日に薩摩へ届いた記事。
永禄二年四月、元亀元年、慶長五年ほか(系譜中記事) / 冊子 506~508頁/原整理番号 24
漢恵帝・呂后から少帝・劉建・孝建・孝倫へつなぐ渡来伝承を経て、大蔵姓の祖から原田・秋月・江上・高橋・田尻の各氏へ分岐する系図。原田太郎種臣を筑前三笠郡原田城、秋月二郎種信を弥須郡古所山城、江上三郎種光を筑後三潴郡江上城、多記四郎長種を筑後三原郡高橋城、田尻五郎種保を生葉の居住者として、名字と城・所領を対応づける。後半は高橋形部左衛門佐種基、種成・文種以下を経て、秋月豊前守文種の二男・元種、吉弘左近大夫鑑理の二男で大友義鑑女を母とする鎮種(紹運)へ続く。鎮種は高橋家断絶のため養子となって家名を継ぎ、筑前岩屋城で薩州勢と戦って義死したとする。元種は西征時に日向国縣城を与えられ、慶長五年の関ヶ原後に処分されたのち赦免された経緯を記し、子孫の官途・居城・婚姻・改姓も載せる。末尾は筑前国住士魯井道載方から高橋武右衛門種登へ送られた写本であると伝来経路を明記する。
天正九年頃~天正十二年 / 冊子 842~843頁
肥前島原合戦へ至る前史として、龍造寺隆信が蒲池鎮漣を謀殺し、筑後諸氏の離反を招いた経緯と、天正十年から田尻鑑種の諸城を五百二十日にわたり包囲したことを記す。田尻氏の求援を受けた島津方は千々石・日比良を攻めて牽制したが、遠隔地のため十分に救援できず、田尻氏はついに開城・降参した。
天正20年7月吉日 / 冊子 579~580頁
島津忠長・伊集院忠棟(幸侃)・町田久倍の三名が、田尻荒兵衛尉の旧跡を残らず一王雅楽助へ宛て行うことを認めた連署宛行状。 梅北一揆関係者である田尻氏の所領処分と、その跡地を新たな家臣へ再配分した具体例として重要である。