秀小路外二名連署返書
年月日未詳 / 冊子 937~938頁/整理ID 2378
秀小路・梅園・さくらいが松平上総介へ、閏九月十三日付の文に答え、津軽右京亮殿奥方が死去したことを受承し、一位の健勝を伝えて心安く思うよう述べる。
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年月日未詳 / 冊子 937~938頁/整理ID 2378
秀小路・梅園・さくらいが松平上総介へ、閏九月十三日付の文に答え、津軽右京亮殿奥方が死去したことを受承し、一位の健勝を伝えて心安く思うよう述べる。
「寛永廿年」二月廿四日 / 冊子 229~230頁
島津久通・川上久国が、金山から両使が帰国したことを報じ、金山停止後の処置を指示した連署書状。北郷佐州と相談のうえ、曾木・横川の衆から四人ほどを金山番手として移し、扶持と山衆屋敷を与えて山内を朝夕巡回させること、金山停止に伴い他国人約二千人を早々に帰国・退去させることを求める。さらに高麗人の取扱責任者を為善から左衛門佐方へ付け替える件を関係者へ申し渡すよう伝えている。
明治2年四月16日~五月18日の戦況記事(系図、発給日なし) / 冊子 662~663頁/原整理番号 860/整理ID 860
忠義公御系図。4月16日に二番・三番兵具隊と加治木砲隊半座が江差へ着き、二番隊が長州・福山・大野・備前の兵と木子内口へ向かう。17日の木子内塁攻撃と笹子屋への退保、22日の三石村への進軍、23日の三番隊と砲隊の二俣等の戦闘、25日の当別村・茂邊地塁攻撃と艦砲支援を記す。25日の箇所には十四日とする戦状の原注があり異同を保持する。5月2日は大川村で二・三番隊と砲隊が戦う。4~6日に港内の綱を調べ切断、7日暁五時に諸艦が攻撃し、陽春・丁卯は陸砲台、春日・甲鉄・朝陽は相手艦を撃ち、回天の座礁・艦卒退去や春日艦の死傷が多いとの記載がある。11日には陸海の挟撃、弁天台場砲撃、朝陽と蟠龍の戦闘、春日甲鉄の追撃、蟠龍の沙州衝突と兵の上陸、函館街の大戦から五稜郭への敗走を記す。16日津軽陣屋を陥れ、18日に原名で榎本釜次郎・松平太郎・大鳥圭介・荒井郁之助らが降伏したとして北方の平定を結ぶ。軍勢評価は系図に帰属させ、原地名・名前を保持し、部隊番号や砲二門を人員・死傷総数へ換算しない。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 37
佐近・頼安以下の相良氏系図と、清兵衛頼兄・喜平次父子を中心とする家伝。清兵衛は永禄十一年に球磨で生まれ、相良の本姓へ復した。慶長五年、福原右馬助が主取となる濃州大垣城に熊谷内蔵之助・木村宗右衛門・垣見和泉守・相良宮内頼房・高橋右近・秋月長門守らと籠城したが、秋月・高橋・相良は関東方へ赦免時の返忠を申し入れ、城内で五将を討って降参した。この策が清兵衛の謀によるとして徳川家康から感状を受け、近習に取り立てられ、肥後葦北郡を与えるとの申し渡しを辞退した後も御目見・近習同前とされた。球磨城主相良壱岐守の仕置を清兵衛が担った際の専横をめぐり江戸へ召され、清兵衛・喜平次の不仕合の風聞から一揆・内乱が起こり、清兵衛は津軽へ預けられた。頼安の妻を島津中書家久の娘とし、その子喜平次(内蔵丞)は元和三年に加治木へ赴き島津義弘の加冠を受けた。寛永十七年の球磨仕置処分時には薩摩屋敷へ遣わされ、その後公儀の構いを解かれ、薩州の臣として二千石を与えられたと記す。
享保十四年十一月十一日 / 冊子 941~942頁/整理ID 2385
十一月十一日、竹姫入輿時に本宅勝手へ詰めさせたい人々として松平左兵衛督・阿部伊勢守・鳥居丹波守・堀田出羽守・松平備前守・酒井右京亮・津軽右京亮らを列挙する書上。京極四郎左衛門らに続き、丹羽壽伴・島津但馬守・同式部・同八郎兵衛・山元縫殿・同大膳・小野次郎右衛門・大井新右衛門・田村主馬も挙げる。