島津忠倍譜
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
慶長三年十月 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、十月の泗川城奪回と追撃を記す記録。明軍が鉄炮と石火矢を備えて城へ攻めかかると、義弘・忠恒父子の軍勢が城から打って出て敵を崩し、晋州川まで追い詰め、多数を討ちまたは溺死させた。さらに敵の兵糧蔵を焼き、帰城後には討ち取った者の塚を築いて松を植えたとする。
慶長三年十月十八日 / 冊子 265~266頁
長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従が略取しなかったこと、辻助兵の死去なども伝える。
十月廿二日 / 冊子 267~268頁
島津忠恒が十月廿二日付で薩摩の重臣らへ出した書状。明の大軍が蔚山・順天・泗川の三道へ分かれ、泗川城を数十万騎で包囲したため、長期籠城を避けて出撃し数万を討ち取ったと詳報する。白狐・赤狐が戦場を走ったことを神仏の加護として記し、順天の敵船焼討ち、再開された和平交渉、帰朝の見込みを伝え、留守居衆に油断なく相談するよう命じる。
慶長二年十二月一日~十二月廿九日 / 冊子 167~173頁
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣までを記す。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。