島津光久北郷家跡目申渡書(枝番1)
(寛文三年)正月五日 / 冊子 459頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1005
島津光久が北郷久定跡の処置について、千世松をめぐる縁組と名字・北郷家相続、北郷又次郎への伝来刀・知行付与などを示し、関係者との内談、祝言、喜入摂津守の江戸供奉の可能性を指示した申渡書。
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(寛文三年)正月五日 / 冊子 459頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1005
島津光久が北郷久定跡の処置について、千世松をめぐる縁組と名字・北郷家相続、北郷又次郎への伝来刀・知行付与などを示し、関係者との内談、祝言、喜入摂津守の江戸供奉の可能性を指示した申渡書。
延宝六年四月廿八日 / 冊子 452頁/原整理番号 562-4
編者は、権左衛門が寛永十五年に二十二歳で光久の江戸供を勤め、同十七年の年頭使、同十九年三月の上屋敷普請奉行などを務めた経歴を挙げる。正保二年の制度改定後も三十四石で百石・二百石・三百石以上の者に準じる御賦を受けたのは、先祖の光というより、高役に召し仕われた人材を重んじた当時の運用によるものではないかと考証する。目録は延宝六年四月二十八日付伊地知重利書状とするが、本文は日付・署名のない編者記事である。
明応7年~宝暦年間(系中) / 冊子 518~528頁/原整理番号 27-4
大隅国郡智尾権現の社家・丸氏について、明応7年の智尾権現上棟文に見える建部弟子丸宗弘(治部左衛門尉)を起点とし、宗元・源次・宗益・宗辰・宗重・宗武・弘之・弘中・弘充・宗方・宗時・宗意・宗茂・宗信・宗祐・宗門・宗安・盈隆らへ続く系譜。備前守らが島津忠隆・貴久期の志布志城・蒲生城などの戦いで討死したこと、宗益が日向福島警衛、河辺野間名三百斛など合計六百斛余の領知と地頭職を得たこと、宗辰が朝鮮出兵で軍功を挙げたことを記す。宗重以後は綱久・綱貴らへの奉公、京都御蔵奉行、琉球在番、江戸供奉・茶屋勤、智尾権現社殿の修造、各村の地頭職・御目付役・小姓役などを詳細に列挙する。宝暦年間には琉球在番からの帰帆が暴風で損傷しながら帰着して賞された記事があり、別系には肥前島原の一揆時の動員、日向国真幸院吉田地頭職六百斛、家久看病、朝鮮軍功感状などが見える。鹿児島の大火で宗茂宅と家伝・武具が焼失した際、宗茂が官庫へ納めていた模写を根拠に証判・感状を再下付された経緯も記す。各人の生没年・年齢・法名、母・妻の出自、女子の婚姻、養子、分家、無嗣断絶を併記し、盈隆と養子・後裔までを収める。
十二月二日 / 冊子 86頁/原整理番号 10-6
島津久竹が愛甲喜春の来訪が延びたことを惜しみ、翌年江戸供奉のため面会が先になると述べる。桂庵和尚の墓所を探索したが知る者がいないため、詳細な書付を求める。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁/原整理番号 172
始良氏の家事と奉公を記した事書。慶長八年二月十四日に猪俣則康が鹿児島へ戻った後に生まれたと記し、寛永七年八月から御船手奉行所を勤め、寛永十二年五月には家久の供で江戸へ上った。進物蔵役に任じられたが帰国予定のため蔵役を免ぜられ、野元権右衛門と交替して奉公したという。慶長十八年・元和六年・寛永九年・萬治二年の新次郎・三郎兵衛・十郎兵衛への俸禄も列挙する。