島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 415頁
大口青木村裏の茶を求摩衆が毎年摘んでいたことから、求摩側が当地を自領と主張し、大口側と国境争論になったため、伊勢貞昌が島津久元・川上久国へ書状を送ったことを記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
7 件 (全巻)/ 1–7件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 415頁
大口青木村裏の茶を求摩衆が毎年摘んでいたことから、求摩側が当地を自領と主張し、大口側と国境争論になったため、伊勢貞昌が島津久元・川上久国へ書状を送ったことを記す。
(寛永十一年)三月晦日 / 冊子 415~416頁
伊勢貞昌が島津久元・川上久国へ、大口青木村裏の茶地をめぐる求摩側との国境争論について双方の主張を示し、上使の裁定までは先例どおりに扱って争いを止めるよう求めた書状。
四月廿四日 / 冊子 32頁
新納忠元が、求摩から届いた書状の内容を取り次いだ書状。奥州様の船を去る十六日に牛窓で見たとの舟衆の報告を注進し、確かな情報が当地では得られないため国分・鹿児島へはまだ報告せず、受取人の判断に委ねると伝える。
正保三年四月廿六日 / 冊子 185頁/原整理番号 101
正保三年四月二十六日付、加久藤側から伊地知伊主膳らへの書状。出水方面の大狩に新納加賀守が菱刈の衆を率いて出立したと聞き、急ぎ新納刑部へ報告したことを伝える。加久藤の衆にも出動があり得るなら早く知らせてほしいと求め、求麻方面の情報を探らせたと記す。大狩の実情はまだ把握していない。
年月日未詳 / 冊子 410頁/原整理番号 146
重範が十六歳で初めて具足を着け、求摩境の戦いに加わった経験を記す。忠元が敵を山野のふか下タへ誘い出し、忠堯・重康らの伏兵が攻めた。重範は郎等を斬った際に腰を負傷したという。早牟田城介ら主従七人を討ち、中間を捕らえた働きに対し、出水の義虎が兼光の刀を贈った。
年月日未詳 / 冊子 59~66頁/原整理番号 57
天正八年八月十九日の肥後芦北郡水俣城をめぐる三か国勢の陣立を記す。家久の先陣、忠平の中陣、義久の本陣に関わる大将・地頭・外城衆・御内衆を列挙し、武具奉行、旗本、手替、付衆、台所などの役人数を記す。本文の陣別小計は三万一千・三万一千・五万三千人で、末尾の十一万五千人に合う。多数の異本注に人名・人数・外題の違いがあり、季安の校合上の疑いも併記される。
五月十五日 / 冊子 11~13頁/原整理番号 6
桑幡孫六が、養父桑幡久右衛門の家の由来と奉公歴を記した覚書。久右衛門の父牛屎刑部太夫が求摩で戦死し、二歳の久右衛門を連れた母が島津惟新を頼って平松の松平隠岐守家に仕えたこと、成長後の久右衛門が駿河・江戸への供奉、国焼の茶入進上、銀子二枚の拝領を経験したことを述べる。牛屎を本姓、桑幡を小名字とする由緒と、文治三年から建武四年までの所蔵文書八通も列挙する。