新納為舟忠元書状
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
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(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜の記事。忠長が病床にあり、諸医の治療や祈祷も効かず、慶長十五年十一月九日に六十歳で死去したことを記す。法号・墓所を掲げ、家臣尾辻次郎兵衛尉と藍田分太が追跡殉死したことも載せる。
文禄4年7月25日 / 冊子 903~904頁
義弘は長寿を東寺まで見送った厚意を謝し、自身が七月十九日に大坂を出船、二十四日に細島へ無事着いたと知らせる。 京都の様子を尋ねる一方、船作奉行として河内にいる次郎兵衛尉、歩行困難な弥太右衛門尉の近況にも触れる帰国報告。
元亀二年四月吉日 / 冊子 236頁
薩摩国加世田秋目津の九玉大明神社殿一宇を再興し、天皇の長久、国土安穏、島津貴久と日新の娘である大檀那の息災延命を祈った棟札。地頭島津尚久が遷宮し、導師・役人・大工・鍛冶・社人を列記する。本文の干支「戊午」は元亀二年と合わず、日新も既に没しているとの編者注がある。
三月八日 / 冊子 373頁/原整理番号 456
『清敷丸乗合人数覚』は、清敷丸の船頭志摩允を掲げ、野村新兵衛・岩助・谷口助右衛門尉・九左衛門・竹之内次郎兵衛尉・善兵衛・谷山諸右衛門尉・相良小右衛門尉・源太・池田助六・同名源左衛門尉・大左衛門の乗合十二人を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 417頁
調所恒幸が初め祐恒から主神司等の職を受け、後に小次郎兵衛尉祐綱へ職掌を譲ったことなどを記す調所氏譜恒幸伝。
二月十四日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 223
新納二右衛門尉が有馬へ使者となる際に渡された覚。先に出水へ派遣された南戸衆、伊豆守方に留め置かれた高岡・穆佐・相良の衆、江戸南戸衆の欠員補充、小番衆・大番衆の稽古、御番帳、病欠時の補充などについて、現地で事情を確認し報告するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 843頁
大隅国で将軍方に属した武士を一族単位で列記する交名注文。平山左京亮、加治木中務入道、池袋弥五郎、木房太郎、策瀬左衛門太郎、小田次郎、菱刈平良彦太郎一族、別府次郎兵衛尉、鎌田藤内兵衛尉、床井宮内左衛門尉、栗野郡司らを挙げ、軍事的陣営構成を示す。