年代記
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、守護方の軍勢が三山へ進み、敵陣を破って勝利し、多数の敵を討ち取ったことを記す年代記事。新藤殿が下向したことも付記する。
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永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、守護方の軍勢が三山へ進み、敵陣を破って勝利し、多数の敵を討ち取ったことを記す年代記事。新藤殿が下向したことも付記する。
3月19日(本文、文化5年記事群) / 冊子 295~296頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0075
留守に置く家来が退役し、代わりの者の御目見を願う件は正徳の先例があると承知したが、その後も同じ例があるか調べるよう求める手控書1通を掲げる。照会は松平薩摩守名で、御用番松平伊豆守の用人新藤善八郎へ向けられる。続く桑山仲太夫の首尾書は、右の達しにより今日中に1人出頭するよう用人の切紙が届き、自分が出たところ、翌朝までに回答を申し出るよう重ねて命じられたと記す。何とか返答をもらいたいので、この手控書を櫻田詰中の小姓を通じて差し上げたと報告する。3月19日、桑山仲太夫、安房宛。照会内容と用人への出頭・回答期限・手控書送付の経過を分け、御目見許可の通知とはしない。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。
現行年紀:應永三年八月十一日 / 冊子 120頁/原整理番号 203/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0203
橘清平を山城権守に任じる旨を伝える口宣案。 蔵人頭右大弁兼遠江権守藤原兼宣が奉じ、上卿の記載を伴う。