島津忠倍譜
年月日未詳 / 冊子 81頁
慶長十一年夏、父紹益が麗島へ、忠倍が東郷へ移ったことを記す島津忠倍譜の記事。忠倍は慶長年間に薩摩の人質として上京し、洛陽・伏見で年月を過ごして国事に尽くしたとも述べる。
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年月日未詳 / 冊子 81頁
慶長十一年夏、父紹益が麗島へ、忠倍が東郷へ移ったことを記す島津忠倍譜の記事。忠倍は慶長年間に薩摩の人質として上京し、洛陽・伏見で年月を過ごして国事に尽くしたとも述べる。
〔天正14年〕9月17日ほか / 冊子 341~343頁/原整理番号 130-30
〔天正十四年〕九月十七日の上井覚兼日記。覚兼が瀬戸山大蔵丞宅に泊まった夜、山田越前守の使者から、五日前に美々津から来た者が四国の兵船の豊後渡海と京衆下向の確実さを伝え、市来川上省伴・家村隼人佑の出家した二子が持参した書状にも同趣旨が記されていたと聞く。御家中に策動へ加わる者が多いとの風聞を受け、油断すれば重大だとの警告を了承したと記す。付随系譜では、忠家が菱刈合戦の馬越取合で永禄十年正月二十四日に戦死したこと、十二代包家が天文五年生まれで永禄十二年の渋谷一揆時に祁答院長野口で三十四歳にて戦死したことと多数の子女・僧を列記する。十三代忠宅は永禄七年生まれ、母を貴島氏女とし、大蔵姓から源姓川上へ改め、豊州撤退の夜戦で深手を負ったが本田淡路守親存に救助された。のち市来地頭本田氏との争論で伊集院忠棟(幸侃入道)の権威に押され十三年間牢浪したが、比志島紀州の上聞により赦免され、慶長年間の日州高岡外城取立時に移住して三十二石八斗を加増され、内山之城本丸に居住し与頭役を務め、正保三年正月十八日に八十三歳で没したとする。
年月日不記(系図記事は文化元年の出生まで) / 冊子 604~616頁/原整理番号 107
紀姓宮里氏の系図で、孝元天皇・武内宿禰に連なる祖先伝承から宮里氏の諸流、近世の子孫までをつなぐ。表紙裏に『丸之内違鷹羽』という旗幕の紋を掲げ、歴代の神主・別当・僧などの職掌や官位、子女の婚姻・養子関係を記す。正賀の条には寛正三年に宮里が没落して一族が分散し、のち島津貴久に属したとあり、正宗の条にも宮里没落後に貴久方へ属したと記す。正平については島津義虎に仕え朝鮮渡海に供奉したとの記載に続き、文禄元年の豊臣秀吉の肥前名護屋出陣と朝鮮渡海、和泉没落で家人が離散したこと、慶長年間に伊佐郡湯田へ移って東郷を経て大村に住んだことを伝える。正安の条には和泉没落後、島津義久の命で東郷、のち大村の外城へ移されたという注があり、末尾は文化元年生まれの正愿に及ぶ。古代の由緒と宮里没落・戦役・外城移住の家伝を一続きに収める点が特徴である。
宝永二年十二月廿日 / 冊子 113頁/原整理番号 27
御持具足として携える武具の品書。鑓と手鑓、弓とうつぼ、鉄砲、長刀、社参の際に入れる打刀を列記し、弓や鉄砲の収納方法にも触れる。末尾に慶長年間の正月吉日とあるが、年の数字は判読が難しい。
年月日未詳 / 冊子 215~216頁/原整理番号 146
『史官雑抄』元文五年正月二十八日の記事。吉野御馬追で川上家が御相伴の金差を務める由緒を調べ、川上家の祖が吉野牧を立て、慶長年間に藩へ献じたとの伝承を記す。金差役や御名代への随行を川上家が続け、当主が勤められない場合は嫡子を出したと述べる。
目録年月日記載なし / 冊子 255~257頁/原整理番号 25
「復封第二十四」は、島津家が三州の所領を回復する経緯を慶長年間の文書でたどり、復封後の田地・石高・貢租の扱いを検討する。第2分冊末尾で田地の旧制と新しい検地・租法を考証し、第3分冊冒頭の「西藩田租考巻下」扉・目次へ続く。
目録年月日記載なし / 冊子 264~265頁/原整理番号 27
「慶検第二十六」は、慶長年間の検地と石高の定めを、島津家の家臣への知行配分や諸郡の田地・租額に関する記録から検討する。文禄・慶長期の先例、家臣の報告、田畠や検地帳の数値を引き、従来の高と改定後の高を比較する。
元禄10年閏2月14日(目録) / 冊子 456~457頁/原整理番号 102-1
穆佐悟性寺に伝わる本尊・社寺の建立と焼失、開山快空や天正寺の由緒を記し、久豊・忠国・義久らの時代における穆佐城、忠国公八幡宮、社領・寺領の給付と勧請の経緯をたどる。元和六年の安置や慶長年間の修造などを挙げ、古い書付と実地の伝承を照合して報告する。
慶長年間十一月十一日 / 冊子 99頁/原整理番号 4
伊勢平左衛門尉が平佐御城普請の兵粮支給について、普請衆一人に一日三度、七合五勺ずつを渡すこと、蔵入から出す費用と普請衆の手配を北郷・相良両名の指図どおりに整えることを命じる十一月十一日付達書。