島津家久過書
四月十六日 / 冊子 160頁
九反帆の薩摩船について、船頭志摩助、中乗九十四人、加子十一人、朝鮮人二十四人、合計百三十一人を乗せて帰朝させるので、異状なく通行させるよう求めた過書。
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四月十六日 / 冊子 160頁
九反帆の薩摩船について、船頭志摩助、中乗九十四人、加子十一人、朝鮮人二十四人、合計百三十一人を乗せて帰朝させるので、異状なく通行させるよう求めた過書。
四月朔日 / 冊子 160頁
市来神川の志摩助の子孫正兵衛が所持する忠恒袖判の過書について、過去の判物改めで記録方へ提出後返却されたものだと確認し、浦役児玉市左衛門へ渡して疎略なく丁重に保管するよう命じた船奉行二名の連署達。
年月日未詳 / 冊子 248頁/原整理番号 197
種子島氏記録として、永俊が七十五歳で卒去し、法名を成等院妙正大姉としたことを記す。鹿児島から大嶋志摩助が弔問し、香奠三千疋を備えた旨で終わる。
年月日未詳 / 冊子 179頁/原整理番号 60
伊東才蔵家の系図。伊東加賀守から右衛門へ続き、右衛門は実は加賀守の弟で、兄の猶子となり、加賀守とともに木崎原で戦死したと記す。次左衛門の後裔は佐土原没落時に浪人となり、のち伊集院忠真に属し、忠真下城後は指宿に居住、その後加治木へ至って惟新公に仕え、知行を与えられた。別系の仙右衛門―志摩助の後裔は光久公に仕えて御守役を務めた。藤五郎―仙右衛門の系の後裔は、江戸上御屋敷の類火時に女房を介抱して退出させ、光久公病気の際には霧島御鉢へ二昼一夜参籠し、のち納殿役を務めた。
文書日付:慶長貳丁酉年三月廿一日 / 冊子 366~367頁/原整理番号 五九二/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0592
田畠・屋敷などの知行地と、御加扶持の分を列挙する。 田方五段九畝十五分・八石一斗七升二合、畠方一町貳反三せ一分・十一石八斗九升四合と記す。 惣合一町八反貳畝十六分、分米廿斛六升六合の知行を村山源兵衛尉へ遣わしたことを証する。 野久尾加賀右衛門尉重忠と根占掃部助重張が署判する。