近衛前久書状
(天正四年)十月十二日 / 冊子 505頁
近衛前久が肝付兼盛と鹿児島で対面できたことを喜び、道中の馳走にも謝意を示す。義久へもその旨を伝え、今後特に文通を続けると約し、京都からの知らせで近辺まで出向いた事情は石田弥介から伝えるとした。
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(天正四年)十月十二日 / 冊子 505頁
近衛前久が肝付兼盛と鹿児島で対面できたことを喜び、道中の馳走にも謝意を示す。義久へもその旨を伝え、今後特に文通を続けると約し、京都からの知らせで近辺まで出向いた事情は石田弥介から伝えるとした。
年月日未詳 / 冊子 670-671頁
慶長五年の関ヶ原敗戦後、須木衆は島津方を迎えて日向へ進み、十月朔日に紙門寺を攻めた。俵屋原弥介との戦いでは十九歳の村尾長介と二十歳の上野彦九郎が負傷しながら敵を討ち、村尾笑栖が若者の働きを称えた。その後、上野隼人は細島で島津義弘(惟新)へ拝謁し、鹿児島清水で弓の技を披露した。
六月十三日 / 冊子 36頁
毛利輝元の使者や西国衆の下国の噂を伝え、相手が伏見城を預かるという話の真偽と徳川家康の到着予定を尋ね、来訪と石田弥介への取次を求めた龍山こと近衛前久の書状。
年月日未詳 / 冊子 769~770頁
伊勢貞知が、長期在陣中の相良五郎左衛門尉を見舞えなかったことを詫び、久四郎への奉公に油断はないと伝える。正月十四日付の書状への返礼、久四郎の在京と健康、灸治・服薬、前年の敵船来襲時の手柄にも触れる。 帰朝が近いとの噂を喜び、必要な用向きがあれば参上すると申し出た、朝鮮在陣者と上方を結ぶ詳細な近況報告。
明暦二年三月二十六日 / 冊子 278頁/原整理番号 41-1
吉田町の五郎二郎が、加久藤の松本弥介から仏像と道具を受け取っていたことを、宗門改めに際して証する請取状。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
(寛永十二年)十二月廿五日 / 冊子 514頁
秋月種成が、肥後へ商いに赴いて薩摩領内で留め置かれた福島の久蔵・善次郎・弥介の三人と、先月にも申し入れた作左衛門について、いずれも福島の者に相違ないので無事に帰すよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 478頁/原整理番号 78の3
町田久辰の譜。弥介・石見と称し、道号を宝山宗珍上座とする。名乗りと道号を掲げ、人物の体貌に触れる短い家譜記事。