島津忠長譜
年月日未詳 / 冊子 195~196頁
島津忠長は筑紫城攻略後、七月七日の岩屋城攻めで自ら前進し、城兵の長刀・鉄砲・投石を受ける接近戦を家臣らと戦った。攻城の激しさと味方の死傷を記したのち、落城後に高橋紹運の子・弥七郎直次(高橋統増)が宝満城から人質として来たこと、なお立花城が降らず使僧を送って開城を迫った経過までを載せる。
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年月日未詳 / 冊子 195~196頁
島津忠長は筑紫城攻略後、七月七日の岩屋城攻めで自ら前進し、城兵の長刀・鉄砲・投石を受ける接近戦を家臣らと戦った。攻城の激しさと味方の死傷を記したのち、落城後に高橋紹運の子・弥七郎直次(高橋統増)が宝満城から人質として来たこと、なお立花城が降らず使僧を送って開城を迫った経過までを載せる。
年月日未詳 / 冊子 237頁
十月十日、北郷忠虎が府内から豊前境へ至る方面の軍に加わり、南郡へ攻め入った経過を記す。鳥嶽城攻略では先陣の兵が城内へ登り、忠虎方も指揮して敵を討ち取ったが、家臣の津曲玄蕃兼詮と前原弥七郎国実が戦死した。高崎城の記事ではなく、豊後侵攻中の鳥嶽城攻めと北郷家臣の犠牲を伝える戦功・戦死記事である。
慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
正月七日 / 冊子 77頁
新納弥七郎が新納仲左衛門尉に、新年を祝うとともに吉松衆中の入組問題を報じた書状。刑部大輔の依頼を受け、上使方へ説明する際は一人では首尾を述べにくいため自ら同道すること、刑部殿からの返答後に使者を送ることを伝える。
正月廿九日 / 冊子 340~341頁
島津貴久が左衛門大夫へ新春を賀し、弥七左衛門尉を雇い入れたいので、必要が済み次第こちらへ送るよう求めた書状。当座の用務があれば事情を聞いたうえで差し遣わすとしている。
元徳四年三月六日 / 冊子 100頁/原整理番号 388
沙弥某が佐多弥七に、祢寝弥次郎清種の申す大隅国佐多村内の田薗について、前年十二月廿一日付御教書と重申状を示し、先の命令どおり申し開くよう命じた書下。元徳四年三月六日付。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 257
加久藤地頭・伊地知重政が召し連れた人数は削減により帰されたが、西田杢允時栄と赤川弥七郎は城攻めで働く志が強く、一人が小者八郎左衛門を伴い、三人でこの日加久藤を発って島原へ赴いた。いずれも自力で参陣したと記す。
元徳三年十二月日 / 冊子 100頁/原整理番号 385
祢寝弥次郎清種の代清成が、大隅国佐多村の田地・屋敷などについて、佐多弥七親経が度重なる御教書に背いて参陳しないため、谷山五郎左衛門入道隆信に事実を尋ね、先例どおり裁許するよう重ねて求めた申状。元徳三年十二月日付。
正慶元年十二月五日 / 冊子 100~101頁/原整理番号 389
祢寝弥二郎清種が建部親政から代銭三十五貫文で買得した大隅国祢寝院佐多村の田地七段・薗一所を、佐多弥七親経が正中二年以来横領した相論について、谷山五郎左衛門入道隆信の起請文や沽券・配分状・御下文を審査し、清種に領掌させるよう裁許した鎮西下知状。正慶元年十二月五日付。
寛永十五年三月二日 / 冊子 360頁/原整理番号 412
村尾重候が赤川弥七郎へ、寅二月二十八日に有馬原城で、本丸の高さ三間ほどの石垣を登って屏を乗り越え、敵一人を仕留めた比類ない働きを、その場で確かに見届けたとして、三月二日に与えた証文。
天明七年十月十七日 / 冊子 175頁/原整理番号 135
天明七年十月十七日の犬追物稽古手組。上手組と次手組に射手を分け、島津藤次郎・栗川弥七・森六郎らを記す。両組の検見を川上十郎左衛門・カワカミ十郎左衛門、喚次を瀬川作平次らとして列記する。
文書日付:正慶元年十二月五日 / 冊子 450頁/原整理番号 六八六/整理ID TMP-P03-IKEHATA-D0686
祢寝弥二郎清種が申す祢寝院佐多村の田地七段・薗壹所を扱う。 本主親政が関東の建長五年十二月廿八日安堵御下文・翌年六波羅施行以下を添えて沽却し、清種が買得した経過を挙げる。 佐多弥七親経の押領をめぐり、召文・隆信の起請文、親政の沽券と代銭参拾五貫文、親綱の配分状等を検討する。 親経が請文に及ばない違背を記し、此上異儀に及ばず清種に領掌させる旨を下知する。
発給/譲渡年紀:元徳三年十二月 日 / 冊子 472頁/原整理番号 七三六/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0736
清種の代清成が、佐多村の田地・屋敷等について重ねて言上する。 佐多弥七親経が度々の御教書に背き参陣しない旨を述べる。 谷山五郎左衛門入道への実否尋問にも左右が申されないとし、傍例に任せた御沙汰・裁許を求める。 三通を副進し、御教書案二通は先進した旨を記す。
文書日付:元徳四年三月六日 / 冊子 449頁/原整理番号 六八四/整理ID TMP-P03-IKEHATA-D0684
祢寝弥二郎清種が、大隅国佐多村内の田薗等について申す。 去年十二月廿一日付の御教書と重申状が示されている。 沙弥は、すでに仰せ下された旨に任せて申し沙汰するよう佐多弥七に伝える。 刊本に『旧記雑録前編一』一六〇七号との同文注記がある。
建久4年5月29日(1193、5月11日・13日の記事) / 冊子 425~426頁/原整理番号 11
富士野御狩について、横沢辺へ向かう命令、駿河国浮島原から富士山麓へ至る景観、諸国・諸氏から選抜された射手と騎馬の編成、狩猟当日の大群集を記した建久四年五月二十九日付抜書。五月十一日午刻に浮島原へ着き、同地を烈獵五年に湧出した希代の名所と説明し、東西南北の地勢や六王子宮居御座平を詳述する。十三日卯刻には二万一千余騎が横沢辺へ向かい、千葉・足利・畠山らが八か国から勝れた射手を選び、近江・信濃、上総・下総をはじめ多数の武士を三番・二番等の射手組に編成した。同日辰刻、富士山水精嶽東宮南大鳥居原は馬を立てる余地もないほどの大勢で満ち、騎馬の者が逸物を競い、草葉を分けて猪・鹿を追う情景を記す。藤原正行が梶原殿へ進上した文書で、末尾注記は射手組二番に大平薩摩四郎が含まれるため、渕辺家の先祖との見合い用に書写して置いたと説明する。
発給/譲渡年紀:正慶元年十二月五日 / 冊子 472~473頁/原整理番号 七三七/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0737
清種が申す佐多村の田地七段・薗一所について、親政から買得した所領への親経の押領を扱う。 親政の沽券に証文を副え、代銭三十五貫文で清種へ永代沽渡した旨を記す。 度々の召文と隆信への実否尋問、親経の違背を記した答え等を記す。 異儀に及ばず清種の領掌を命じ、正慶元年十二月五日の年紀を付す。
元徳三年十二月日 / 冊子 596頁
大隅国御家人祢寝弥次郎清種の代清成が、同国佐多弥七親経が京都騒動時の御教書に応じて参陣せず、谷山五郎左衛門入道の照会にも回答しなかったと訴え、佐多村の田地・屋敷等について先例どおりの裁許を求めた申状。
(延宝三年)後四月廿二日 / 冊子 662~663頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1666
論山の評定に出すため、梶山・庄内側から上方へ赴く証人を二組に分け、論山の由緒を知る者として弥七左衛門・越右衛門・八左衛門・万兵衛・大右衛門・助兵衛・権右衛門らを列挙した書上。
二月廿八日 / 冊子 314頁/原整理番号 342-1
加久藤衆中の手負者六人を、負傷の種類・程度とともに列挙した注文。赤河兵左衛門尉は鑓疵深手、同弥七郎は浅手、金剛坊は鉄炮疵深手、岩崎弾之丞は鑓疵深手、西田杢之丞の小者九郎左衛門尉は同深手、川野与右衛門尉は同浅手とし、二月二十八日付で合六人とする。
年月日未詳 / 冊子 362頁/原整理番号 422
三月三日の取払として、赤川弥七郎の飯米に真米一斗、膳長坊への借米に真米四升を渡した。振舞では伊地知弥右衛門尉重延に白米五合、有馬主馬丞純秀に白米二合五勺を用い、買物では酒一升代に真米二升、原記『若女』代に真米七合五勺を支払った。二月二十七日・二月二十九日・三月五日・四日の所在注を各勘定と区別する。
年月日未詳 / 冊子 166~167頁/原整理番号 510
末吉の肝付孫七家系図。上世の出所は不明で、肝付左近の実名・法号も不詳とする。左近に男子がなかったため、大山弥八左衛門の子を弥左衛門として養子に迎え、法名を潤心識屋禅定門と記す。以下、弥八左衛門・弥七・太郎兵衛・七郎らの分岐、養子、母方、婚姻を列記する。
二月廿九日 / 冊子 336~337頁/原整理番号 379-2
伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで加久藤衆が挙げた首取得、手負・戦死、同心衆を列記し、上原左太右衛門尉尚辰・新納佐左衛門尉忠頼へ提出した注文。首取得者十二名の個別首数は合計十五で、本文の『合首数十五』と一致する。金剛坊の鉄砲疵、岩崎弾之丞・川野与右衛門尉らの鑓疵、赤川兵左衛門尉の戦死を記す。同心衆欄には西田和泉守らを列挙する。二月二十九日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一六八号文書と同文とする。
慶長六年十月廿一日 / 冊子 785-786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国祁答院の大村にある楠原弥七右衛門尉屋敷三十石二斗三升を、井尻伝次へ加増として宛行った目録。
長禄二年正月四日 / 冊子 113~133頁/原整理番号 28
慶長十三年正月朔日から晦日までの加治木御日記。惟新(島津義弘)のもとに参上する家臣・寺社・使者と年頭の進物・酒宴を日ごとに列記する。前年からの惟新の病状を案じる龍伯・奥州らとの使者往来、各寺社の祈祷成就と札・巻数の進上が繰り返し現れる。十五日には駿河普請に関する口達、二十五日には猿渡弥七郎の処罰、晦日には惟新の吉書を記す。末尾の注記は、この日記の儀式を隠居後の加治木城の式例とそのまま同一視できないと述べる。