芝邸各間飾付次第書
宝暦十二年日付不記(前項結納次第に続記) / 冊子 930~931頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2734
書院には養朴筆の鶴図二幅と立花二瓶、違棚には劉松年筆の人物画一巻、「仙香立」と記す金属の人形、堆朱の盆、松竹龍の蒔絵の硯箱、蒔絵の文台、料紙・卦算を置くと記す。取附之間には秋月筆の寿老人図と立花、秦吉了之間には探幽筆の富士図と金属の花入の生花、鳰之間には唐筆の山水図と焼物の花入の生花を配し、それぞれの臺も挙げる。
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宝暦十二年日付不記(前項結納次第に続記) / 冊子 930~931頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2734
書院には養朴筆の鶴図二幅と立花二瓶、違棚には劉松年筆の人物画一巻、「仙香立」と記す金属の人形、堆朱の盆、松竹龍の蒔絵の硯箱、蒔絵の文台、料紙・卦算を置くと記す。取附之間には秋月筆の寿老人図と立花、秦吉了之間には探幽筆の富士図と金属の花入の生花、鳰之間には唐筆の山水図と焼物の花入の生花を配し、それぞれの臺も挙げる。
天正年人月十一日 / 冊子 660頁
島津義久が上井覚兼へ、日向国海江田の城と所領八十町は遠境にあるため、薩摩国永吉郷へ繰り替えて宛行った文書。確定版年月日は『天正年人月十一日』だが、本文年紀は天正八年八月十一日と読める。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
文禄5年12月2日(付属記事:同月22日) / 冊子 267頁/原整理番号 107-6
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚氏と平田狩野介宗應へ書状を送り、重久名の件を協議させたと記す。
年未詳4月7日 / 冊子 271~273頁/原整理番号 107-14
卯月七日、昌州(傍注では連歌師昌叱か)が某人へ、先日その地へ参上して宿所を訪ねたが留守だったと伝え、京都連歌の『御かし』を平田与進のもとへ送る件について、料紙をまだ用意できないため、まず自分の愚作を差し上げるので書写して返してほしいと頼んだ書状。付属記事は、慶長十六年正月に龍伯が没した後、上原尚氏が鹿府に居住し、食禄百五十一石(国分高帳では百五十三石)で府籍に登ったこと、慶長十八年十二月に大坂事への備えとして老齢のため夫三人を出したこと、元和六年二月の百石以上四分一収公に応じ、残る百五石を食んだことを記す。さらに分家の尚演が家久の御納戸役となり、元和七年の犬追物で四疋を射、寛永九年には食禄七十九石を登録したこと、横川・清水郷・伏見・南林寺等に関わる尚演以下の分家・養子・還俗・御用人・近習役などを系図で示す。連歌書状に上原氏の近世初頭の知行縮減、軍役負担、役職、分家系譜を連ねた構成が特徴である。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。