山田氏系図
年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
18 件 (全巻)/ 1–18件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
慶長六年十一月廿六日 / 冊子 789頁
島津忠恒を大檀那として、霧島六所大権現下宮の宝殿一宇を造立したことを記す棟札。正行院法印看信、法印淳有・有賢、大工白尾常陸守国有らの名を列記する。
年月日未詳 / 冊子 889頁
島津尚久の娘が佐多常陸守忠常の室となり、忠長をもうけたことを記す系図記事。
天正五年十二月七日以後 / 冊子 522~523頁
野尻地頭福永丹波守の伊東義祐への怨恨を上原尚近が察し、竹内備前守らを介して内応を誘った経緯を詳述する。伊東方に謀書を拾わせて福永への疑念を煽り、十二月七日夜に六十五人の先陣が野尻城へ入り、義弘も入城した。戸崎・紙屋・富田・佐土原へ進み、伊東義祐の豊後逃亡後、五日ほどで日向を制した。
天正六年十一月十日~十二日 / 冊子 626~627頁
大友大軍に対し通常の戦法では勝てないとして、島津方が十一月十日に敵の往来へ伏兵を置き、翌日わざと退いて松山陣勢を誘い出し討ち取った。十二日の決戦では大友軍が島津方を押し、一時多数の戦死者が出たが、島津征久らの横撃で敵を谷瀬川の深淵へ追い込み、大友軍を敗走させた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 702頁
山田氏支流の友久について、亀三郎丸・式部孫三郎・掃部助・常陸守の名乗りと系統を掲げる系図記事。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 49の6
伊地知季安が、式部常陸守友久による応永六年三月二十一日の寄進文を挙げる。二親道慶禅門・通長禅尼の菩提料として、鹿児島給分小牧の中牟田二段を福昌寺に寄進したもので、友久は元久公の時代の人物を氏久の時代と誤伝したのではないかと考える。松齢公(島津義弘)の御書は後に載せるとし、永和三年二月二十五日の氏久公簑原合戦について聖栄自記の記事を続掲する。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁/原整理番号 49の5
谷山郡内山田への入部をめぐり、山田右京亮が親類の式部常陸守・舎弟左馬助と相談したが異見が生じた経緯を記す。伊地知新左衛門尉らが夜に谷山方を攻め、鹿児島への通路を断ち、常陸守と弥三郎が討死したという。伊地知新左衛門尉・井ノムレ衛門四郎らが上下三、四十人を討ったと続く。氏久は鹿児島で事態を聞き、山田への競望を道に背く行為として戒めたと伝える。
天正三年十月廿日 / 冊子 146頁/原整理番号 82
天正三年十月二十日の犬追物手組。島津下野助五疋、島津常陸守八疋、伊地知右衛門大夫八疋、島津下総守十疋などを記し、検見を義弘様、喚次を鮫島助六とする。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁/原整理番号 1
山田右京亮が谷山郡内の山田本領へ入部する件を親類の常陸守・左馬助と相談した後、右京亮らは大姶良へ移る。常陸守は伊地知新左衛門らと山田城に入って鹿児島への通路を断つが、谷山勢の攻撃で常陸守と弟、門人らが討たれ、城を谷山方に取られたと記す。末尾で季安は関係者を比定し、この経過を考証する。
年月日未詳 / 冊子 416~417頁/原整理番号 159
道観の報告を受け、肥後進出を評定して佐多常陸守を大将とし、川上・上原・宮原らを添えた。天正八年六月中旬に出水米の津から出船し、高橋へ上陸して城親政父子や鑑高・鑑弘らと内談した。阿蘇方の宗連が矢崎城主らを味方につけたため進出は難航したが、筑前諸氏は忠節を申し出た。忠元・伊集院・道観らが矢崎攻めを決めると、城側が通路を塞いでいたことを理由に親政父子も協力する意向を示した。
年月日未詳 / 冊子 417~418頁/原整理番号 161
十一月十三日、軍勢を二手に分け、窪田千町に放火して退くと、大津山越前守が四千余騎で現れ、平川の三百人が敗走した。島津勢が戦う中、伊集院下野守や川上・肝付らが奮闘し、忠元と息子刑部太輔も大口勢を率いて攻め、百三十余の首級を得たと記す。佐多常陸守らの攻撃も続いた。十二月十三日に隈元から河尻へ下り、翌早朝に三百余艘で出水へ帰還した。義久が成果を聞いて喜び、諸将を招いて賞賛したという。
年月日未詳 / 冊子 418~419頁/原整理番号 162
天正八年十一月十三日、合子へ出て久保田千町に放火すると、大津越前守の四千騎が押し寄せ、平河の二百人が敗走した。伊集院下野守が太刀で敵を討ち、川上・肝付らが奮闘した。武蔵父子と大口勢も戦い、佐多常陸守を大将として大津勢を破り、百三十余の首級を得たと記す。隈本へ帰り、諸人が戦功を挙げたとして道観の働きも評価し、古代の戦場を思わせると結ぶ。
巻一/冊子 7~8頁
天文八年、貴久・忠良方が溪山方面を攻め、敵方の本城・神前・高城などを順次服属させた経過を記す。溪山駿河守・伊集院山城守・松崎丹後守らが降り、高城主鎌田加賀守も帰順したため、忠良は新納伊勢守らに城地を預けて支配を固めた。六月、貴久は自ら市来へ進み、平城を容易に破って陣所とし、大日寺前の合戦では喜入忠俊・樺山善久・蒲生宮内大輔らが奮戦して勝利した。入来院重聡も援軍を率いて来陣し、佐多・頴娃・蒲生・種子島・肝付・禰寝・伊地知ら諸勢力が加勢した。続いて伊集院忠明らの調略により串木野城・市来本城が帰順する。敵方の新納常陸守らについて忠良は、実久の暴虐に従っただけとして護送・保護を命じ、恩をもって怨みに報いたと評価する。
年月日未詳 / 冊子 414~416頁/原整理番号 158
義久への奉公を申し出た隈本の城親賢父子と道観の交渉を述べる。諸島の協力者を結び、出水の兵船と三百余騎を用いて高橋へ上陸した。筑前諸氏の働きも報告し、十月十五日、矢崎を陸海から攻めて火矢・放火・討取りにより落城させた。城主らの敗走と死を記し、翌日青田へ進み、三日間宇都に留まって負傷者を養生させ、戦死者を弔った。十月十九日の諸軍の陣替えと、上原・黒木・貴島・宮原らの戦死にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 417頁/原整理番号 160
天正八年十月十五日に矢崎城を攻め落とし、多くの者が討死したと記す。翌日は青田へ押し寄せ、和議によって降し、青田・鴻の浦を受け取った。宇都に三日留まって負傷者を休ませ、矢崎の死者を思って涙したという。十九日に諸軍が隈本へ帰り、青田・鴻の浦三百町を宇都の鑑高へ与えたとする。
日々記冒頭の日付。本文に二月各日、天正十一年三月三日、五月十一日・六月十八日等を含む。:天正十二年正月一日 / 冊子 520~524頁/原整理番号 八二六/整理ID TMP-P03-TORIHAMA-D0826
天正十二年正月一日の年越し番衆への扇子給付に始まり、参社の百文・御酒・酒食・座敷を記す日々記。 各日には寺への礼銭・斎・参入、御家中の寄合、鹿児島へ参上した御供衆などの行為を記す。 太刀・青銅・樽・酒食等の進上と給付について、恒例ニアラス當時ノ義也とするものや今年より持参するものを記す。 二月の記事の後に天正十一年三月三日、五月十一日、六月十八日等も記し、足軽衆中間衆の別行日記にも言及する。
年月日未詳 / 冊子 504頁
島津歳久一流系図の常久の項。幼名を襲装菊丸といい、又吉・常陸守・下総守を称したこと、天正十五年正月十八日に祁答院宮城で生まれ、母が歳久の嫡女であったことを記す。歳久流の血縁と出生を確認できる基礎史料。