星野寿庵覚書
年月日未詳 / 冊子 262~268頁/原整理番号 218
『星野寿庵覚書』。宗意軒の来歴と門徒勧誘、仏像・奇術・祈祷による教化、火器・兵糧・資金の調達、天草四郎を中心とする蜂起準備を詳述する。村々での集会、武具・鉄砲の製造や徴発、住民の動員、蜂起後の行動と装束に及ぶ。
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年月日未詳 / 冊子 262~268頁/原整理番号 218
『星野寿庵覚書』。宗意軒の来歴と門徒勧誘、仏像・奇術・祈祷による教化、火器・兵糧・資金の調達、天草四郎を中心とする蜂起準備を詳述する。村々での集会、武具・鉄砲の製造や徴発、住民の動員、蜂起後の行動と装束に及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 274~275頁/原整理番号 227
『星野寿庵覚書』。島原口之津村で宗門の者が集まり、秘像を掲げて寄合を重ねた事情を記す。男女の集会と宗門儀礼、代官・役人への襲撃、武具・鉄砲を奪って周辺村々を蜂起させ、島原城方面へ進む過程を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 277~278頁/原整理番号 232
『星野寿庵覚書』。松倉長門守父子が江戸にある間、留守居家老多賀主水・岡元新兵衛のもとで村々が蜂起した状況を記す。船上の鉄砲・大筒、城内外の攻防、火薬・兵糧の奪取、城方による百姓の成敗までを述べる。
年月日未詳 / 冊子 283~284頁/原整理番号 240
『星野寿庵覚書』。十一月五日の島原城内人数と籠城配置、鉄砲・弓・騎馬の勢を記す。深江村への出撃、町屋・兵糧の奪取、火攻め、追撃、死傷者・敗残兵の動向を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 289頁/原整理番号 247
『星野寿庵覚書』。島原城籠城の諸士・家来、安徳村大庄屋方と岡本新兵衛方の油断・内応を記す。城内の人数、共謀の疑い、千束善左衛門方への宿泊と捕縛を述べ、霜月十一日・十四日記事との考合を促す。
年月日未詳 / 冊子 296~298頁/原整理番号 258
『星野寿庵覚書』。天草四郎を宗意軒方へ迎え、宗門の大望・蜂起を説いて勢力を集めた経緯を記す。白仏・呪術・誓詞、人数帳、武器・兵糧の調達、島原への渡海、十一月五日の城攻めまでを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 311頁/原整理番号 278
『星野寿庵覚書』。十一月五日、島原城内の籠城人数と一揆勢の編成を記し、天草四郎・宗意軒らが深江方面へ働いた経緯を述べる。富岡城への進軍、兵糧奪取と火攻め、九日の唐津援兵到着までを記す。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁/原整理番号 293
星野寿庵が、九日に富岡城へ着いてから、上津浦・小嶋子村の一揆勢と唐津方が対峙した経過を記した覚書である。村民・人質の扱いと、小嶋子・有栖本両村へ唐津勢を分けて入れる策、森宗意軒・天之四郎らの謀議を述べ、十三日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 327頁/原整理番号 297
島原城の北、杉谷町の松倉家米蔵付近に一揆勢が白旗を立て、城中がこれを不審として足軽三百人余を派遣したことを記す。一揆方の備えと兵糧米の取入れをめぐる緊張を述べ、十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 330~331頁/原整理番号 303
十三日、岡嶋次郎左衛門・柳本五郎左衛門らに人数を付け、亀ノ河内・再河方面へ遣わした軍勢配置を記す。上津浦への集結、夜間の警固、白布を旗印とする合図、敵追討の手配を詳述し、十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 344~346頁/原整理番号 312
十四日、杉谷の兵糧米を城内へ取り込むため軍勢を出し、一揆方と唐津勢が鉄砲・弓で激しく戦った経過を記す。唐津勢の敗走と富岡城への追撃、各隊の奮戦を述べ、四郎・仲右衛門が貝鐘を吹いて軍を収めたところで終わる。
年月日未詳 / 冊子 349~350頁/原整理番号 318
十四日の杉谷蔵米奪取後、島原城内で夜間警固を強め、灯火や烽火で合図しながら城門・板屋を守ったことを記す。十五日から十八日にかけての軍衆召集、町家・寺院の武器供出にも触れ、関連する小川監物祐政の日記を紹介する。
年月日未詳 / 冊子 361頁/原整理番号 339
十一月十九日、芦塚仲右衛門が二百余人を率いて未明に富岡城大手へ押し向かった戦闘を記す。城方は門を閉じて鉄砲で応戦し、城外へ一人も出さず守備を固めた経過を述べ、二十一日夜半の記事へ続く。
年月日未詳 / 冊子 383~384頁/原整理番号 353
二十一日夜半過ぎ、一揆勢が伊勢殿郭下へ押し寄せ、白装束で矢狭間から攻撃した夜襲を記す。城方は大砲や木筒に箭を込めて応戦し、後の籠城戦でも用いられた箭が富岡城中のものであったと注記する。
年月日未詳 / 冊子 402~403頁/原整理番号 366
二十三日早朝、一揆勢二、三百人ほどが大手口へ遠く押し寄せ、敵を侮るように武者を見せたと記す。城内が動かないうちに、三、四町離れた森の高所に紅の旗煙二筋が上がると寄手が乱れて退き、城兵は追撃した。十一月十九日から二十三日まで城外へ出られないよう城を押さえ、その間に大江・赤星らが天草中の糧米を奪って島原へ送り、芦塚の手勢も二十五、六日ごろ島原へ渡ったと述べる。
宝暦十年十月七日 / 冊子 795頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2435
十月七日の幕府申渡書で、同氏大隅守が国元で病気のため、願いのとおり医師村田寿庵を派遣するので、その旨を承知するよう伝える。朱書に「松平薩摩守に」と宛先が記されている。
年月日未詳 / 冊子 785頁/原整理番号 865
正月末頃、城内から夜に紛れて二十五、六歳の女性一人が逃れ出たところ、松倉衆がこれを引き据えたと記す。星野寿庵の覚書からの短い引用である。
年月日未詳 / 冊子 418頁/原整理番号 382
大江・赤星の手勢が天草中の糧米を奪って島原へ送り、その後、芦塚の手勢も十一月二十五、六日ごろ島原へ渡ったと記す短い覚書。
文化2年9月再造許可・12月着工、文化4年10月27日落成、翌年4月6日二丸へ像到来・翌日安置(本文) / 冊子 253頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0815
寿国寺管下の千眼寺は旧来鹿児島荒田村にあって廃壊して久しかったが、文化2年乙丑9月、黄檗派大幻が再造を請い許された。西田村屏風迫に地を選び影堂も建て、同年冬12月に着工し文化4年丁卯10月27日に落成した。沿革注では、旧号福寿庵で皇徳寺管下にあり、廃壊後の元文2年に住僧随縁が私財で再造して中村に置き、千条山千眼寺と改称、改宗して寿国寺へ隷属したとする。随縁は島津助之丞久内の鼻祖・島津市正忠広の二男で当地に住した僧と記し、その後も長く廃していたとする。江戸白金瑞聖寺主の沖和尚を開基、大幻を寺主とし、尊師を開基とする禅家法の注がある。階を歴て門主となり、寺班は幸善寺の次、山号を万徳山と改めた。重豪は金350両を寄附して官へ貸し、息銭を給することとし、江戸で仏匠に自らの像を刻ませた。本文の翌年4月6日に本府二丸へ到来し、翌日影堂へ納め、木主も置き、万歳の後に年月などを記すよう戒めた。千眼寺は黄檗山管下となり寿国寺には再び隷属しないとする。出典は重豪公御譜中。許可・着工・落成・像安置と、寄附・利息・所属変更を分ける。