島津義久書状
雪月十三日 / 冊子 371頁
島津義久が左衛門督に、勝久の子忠吉とは今朝きっぱり交渉を断ったので安心するよう伝え、狩猟用の犬を送ることと、水牛角二本を進上することを知らせた書状。
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雪月十三日 / 冊子 371頁
島津義久が左衛門督に、勝久の子忠吉とは今朝きっぱり交渉を断ったので安心するよう伝え、狩猟用の犬を送ることと、水牛角二本を進上することを知らせた書状。
天正二年十二月 / 冊子 348~349頁
天正二年十二月、志岐氏が肝付氏帰順の祝詞と進物を届け、義虎・天草氏の和平を仲介した。同行者が吉野で殺害され、犯人二人が福昌寺に逃げ込むと、捕縛の際に坂本吉右衛門が刺されて犯人を斬殺した。代賢和尚が寺の災厄を嘆いて退去したため義久らが慰留し、のち志岐氏へ和平方針を返答して馬・鉄砲を贈った経緯を記す。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。