肝付市郎右衛門家系図
年月日未詳 / 冊子 147頁/原整理番号 491
樋脇の肝付市郎右衛門家系図。武蔵介兼賢の五男で隼人入道道庵を称した兼里を祖とし、天文十八年の出生、河内守兼久の二男兼親を養子とした由緒、寛永九年正月廿三日の死去を記す。以下、兼政・兼綱・兼明・兼有らの系統、女子の婚姻、南雲氏からの養子を列記する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
27 件 (全巻)/ 1–27件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 147頁/原整理番号 491
樋脇の肝付市郎右衛門家系図。武蔵介兼賢の五男で隼人入道道庵を称した兼里を祖とし、天文十八年の出生、河内守兼久の二男兼親を養子とした由緒、寛永九年正月廿三日の死去を記す。以下、兼政・兼綱・兼明・兼有らの系統、女子の婚姻、南雲氏からの養子を列記する。
年月日未詳 / 冊子 874~875頁
『島津国史』が、天文十八年の島津忠親・北郷忠相と伊東氏の対立を中心に記す。伊集院忠朗・肝付兼演ら諸氏の帰属、清水城・加治木城周辺の出兵と戦闘、使者を介した和解と再離反を追い、領主間の同盟が変化する過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 875頁
天文十八年に伊東氏との戦いなどで戦死した豊州島津忠親・北郷忠相方の武士を、日付と戦況を添えて列記する。
年月日未詳 / 冊子 876頁
天文十八年三月から四月、清水方面で諸将が敵方と戦い、新納忠元が大刀を携えて先鋒を務めたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 876頁
天文十八年三月から六月、伊集院忠朗の飫肥出陣、黒河崎への着陣、渋谷衆の降参と和平による解陣を日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年、島津貴久が清水に布陣した際、新納忠元が諸将とともに城攻めと防戦に加わり、武功を挙げた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年三月廿二日、伊集院忠朗・豊州島津忠広らが飫肥方面へ進み、諸将を率いて攻城・防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 877~878頁
天文十八年四月五日、飫肥をめぐる伊東方との戦いで豊州島津忠広・北郷方が応戦し、敵方に損害を与えた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年三月廿一日、島津貴久方が清水から飫肥へ向かい、伊集院忠朗らと協議して敵陣を攻め、敵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年三月十一日、清水から飫肥へ出陣し、四月三日に伊東方の攻撃を受けて多数を討ち取ったのち、陣を引き払った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年二月廿日、伊東方が井手の平方面から出撃し、北郷方と交戦して藤木田付近まで追撃・反撃した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 879頁
『日向記』が、天文十八年二月二十日の井手尾下付近の戦いを詳述する。豊州島津氏・北郷方と伊東勢が陣を分け、伊集院忠朗・稲津氏らが攻城・迎撃に加わった経過を追い、各陣の進退、討ち取られた武将、最終的な勝敗を記録する。
年月日未詳 / 冊子 880~881頁
『樺山玄佐譜』が、天文十八年の加治木・高城方面の攻防を記す。樺山善久・伊集院忠朗らが肝付兼盛・蒲生方の城内へ働き掛け、敵勢の減退を見て降伏条件を調整し、使者・人質を介した和議から帰順、城の受け取りへ至った経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 882~883頁
天文十八年、島津貴久方が加治木城主肝付兼盛と蒲生・渋谷方を攻めた戦役を記す。伊集院忠朗らが城と周辺陣地を攻略し、敵勢を退散させて加治木城を落とした後、使者・人質を介して和議を結び、兼盛らを赦免して帰順させた。
年月日未詳 / 冊子 885頁
天文十八年、島津貴久の加治木攻めに際し、島津忠親・北郷忠相らが調停し、肝付兼盛や渋谷・蒲生方との和議を進めた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 886頁
天文十八年、島津貴久が肝付兼盛の加治木城を攻めようとした際、北郷忠相らが調停し、和議と起請文交換へ至った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
巻一/冊子 11~12頁
天文十八年、加治木城主肝付越前守が蒲生・渋谷勢と結び、貴久への礼を欠いたため、貴久が伊集院忠明を進ませて黒川崎に陣を築かせた。肝付方も向かいに陣を構えたが、陣中で火災が起こり、肝付・渋谷・蒲生方は動揺して北郷忠相と菱刈氏を介して降伏を求めた。貴久はこれを赦し、肝付父子・蒲生・渋谷らは清水で謁見する。島津軍が鹿児島へ戻る途中、彼らは酒肴を整えて迎え、和睦成立を祝った。続いて貴久が鹿児島へ移ったことと、天文二十一年六月十一日に従五位下藤原貴久が修理大夫へ任じられた宣旨を収める。軍事対立の解消と官位上昇を結びつけた記事である。
天文十八年五月一日 / 冊子 868頁
北郷忠相が飫肥での弓箭に際した立願成就のため、田数を宮内社司へ寄進し、毎年四月二日の祭礼に充てるよう定めた寄進状。
(天文十八年)二月六日 / 冊子 875~876頁
島津貴久が、義久の帰宅を祝い、相手方の人衆の到着と今後の弓箭について述べた書状。左衛門督歳久譜中に収める。
天文十八年五月一日 / 冊子 884頁
北郷忠相が飫肥での立願成就を受け、田地六反を宮内社司へ寄進して祭礼に充てることを定めた寄進状。
天文十八年十一月六日 / 冊子 884~885頁
新納忠職が先の約諾を確認し、子孫へ所領・権利を伝える旨を定めた寄進状。新納忠徳所蔵の正文による。
天文十八年十二月二日 / 冊子 885頁
島津忠親が和融の仲介と相互の信頼・協議を誓い、違背しないことを神明に誓約した起請文。
天文十八年十二月七日 / 冊子 885頁
祁答院良重が和融の仲介と守護、相互の信頼を誓い、梵天・帝釈や諸神の罰を掲げて違背しないことを誓約した起請文。
天文十八年十二月九日 / 冊子 885頁
北郷忠相が和融の仲介と守護、相互の信頼を誓い、違背しないことを神明に誓約した起請文。本文年紀は十二月七日と記す。
(天文十八年)十二月十六日 / 冊子 886頁
島津忠親譜中に収める書状で、本文では北郷忠相が肝付兼盛に、先の条件への返答と今後の取り計らいを求めている。
天文十八年十二月廿九日 / 冊子 886頁
肝付兼盛が和融の仲介と守護、相互の信頼を誓い、梵天・帝釈や諸神の罰を掲げて違背しないことを誓約した起請文。