慶長十九年日記
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津義弘の大坂出陣を協議し、軍中法度の条々を定めた日記。流言の禁止、陣所の警固、戦闘時の統制、鉄砲使用、略奪や私闘の禁止、他国人・船舶・宿主への対応などを詳細に定める。
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年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津義弘の大坂出陣を協議し、軍中法度の条々を定めた日記。流言の禁止、陣所の警固、戦闘時の統制、鉄砲使用、略奪や私闘の禁止、他国人・船舶・宿主への対応などを詳細に定める。
年月日未詳 / 冊子 562~564頁
島津家久の留守中に記録された日々の日記。上洛船・使者の出入り、港や街道の警固、各地からの書状、物資・銀子の受け渡し、悪天候による船の遅延など、大坂出陣期の国元実務を日付順に記す。
(慶長十九年)十二月十五日 / 冊子 566~567頁
大坂出陣に向け、港の番船・出船、逃亡者や城下の混乱への処置、米穀の給付、各地の兵員招集を指示する。悪天候でも出船を急ぎ、遅参や命令不履行を厳しく取り締まるよう求めた家久書状。
(元和元年)四月廿日 / 冊子 581頁
大坂出陣を急ぐ一方、船の準備が整わないことや大御所の上洛、島津陸奥守の上洛予定などを知らせ、至急の参陣を重ねて求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 137~145頁/原整理番号 27
『税所氏系図 大隅曽於郡系図』と題し、光孝天皇―宇多法皇―敦実親王―篤房以下を祖系として税所氏諸流を展開する系図。篤房流が天暦九年に藤原姓を給わったとの伝承、治安元年の大隅国曽於への配流、曽於御館・坂上御館を起点とする家系を記す。税所職、押領使職、大隅国大介・国大専当、曽於郡司、止上大宮司、惣検校、厚智山座主等の職掌と、曽於郡重富・重枝・重武・中津川・松永・栗野院恒次、薩摩国満家院、牛屎郡金波多村、山門院菓成河などの所領を列記する。源平争乱・和田合戦での忠節と戦傷、加世田城・横川での戦死、琉球地頭、大坂出陣などの軍歴、婚姻・養子・出家・法名・家督相続も収め、篤元ら近世の子孫へ至る。
年月日未詳 / 冊子 211~216頁/原整理番号 76-1
比志島元祖上総介重賢(入道法橋栄尊)の二男盛忠を祖とし、重賢から譲られた薩摩国満家院内西俣名主職を後裔が相伝した源家西俣氏の系図。久盛・義時の筑前笠崎異国番、義定への貞和四年道鑑公御書、義光への応永十八年久豊公御書など、名主職・所領・軍役を証する文書の伝来先も記す。義村に実子がなかったため蒲生彦太郎清冬の二男を猶子とし、その後に蒲生で永秀庵・観音院(泊瀬山長谷寺)を建立した由緒を載せる。天文二十三年、蒲生茂清が加治木城の肝付兼盛を攻めた際、蒲生氏の類族であった武蔵守盛家父子は岩剣城へ加勢し、池島ヶ原で敗れて同年十月二日に自害した。幼少の清房は母に匿われて菱刈へ逃れ、成長後は島津氏に奉公して諸軍役・大坂出陣に従い、島津家久から鎧一領を与えられ、のち家督を清昌へ譲って清敷地頭となった。後代には瀬口重明二男の盛友を清房妹の遺跡へ入れて西俣氏を称させたこと、孫太郎遺跡を姉が八、九年支配する間に家伝の証書・重物が散逸し、孫兵衛が島津光久から跡職を命じられて万治二年に清敷から鹿児島へ移ったため、所領・跡職だけが安堵されたことを記し、盛武以下の子女・婚姻まで続ける。
慶長十八年十二月朔日 / 冊子 433~446頁
慶長十八年十二月朔日付の軍役賦帳。家臣・地域ごとに石高、人数、乗馬、鉄砲・槍などの装備、船、城内外の勤仕を列挙し、総人数・道具・馬匹等の集計と大坂方面への動員経過を記す。
十月廿五日 / 冊子 555~556頁
大坂の事態が急迫し、徳川家康が京都へ到着したため、兵を率いて早々に大坂表へ出陣するよう命じた四名連署状。関東側の仕置は整っているので、数日中の着陣を求める。
年月日未詳 / 冊子 566頁
諸士の采地献上に際し、北郷忠能が高城・勝岡・山之口を島津家久へ献上したことを記す。同年十二月、家久が大坂へ出陣すると、忠能もその旗のもとに従軍したとする北郷忠能譜の記事。
(元和元年)四月廿日 / 冊子 579頁
大坂への出陣が急となったため、召集・派遣する人数や先手の配置を協議し、遅滞なく準備して上洛するよう求めた山口直友の書状。
(元和元年)四月廿日 / 冊子 580~581頁
大御所が十八日夜に上洛し、将軍も二十三日ごろ上洛する見込みであるため、人数・装備を整え、遅滞なく大坂方面へ出陣するよう急かした書状。
(元和元年)五月二日 / 冊子 582頁
大坂への出馬が目前であるとして、京都への到着を急ぎ、参会して指示を受けるよう求めた飛鳥井雅庸の書状。
永禄元年3月19日、文禄元年、慶長5年1月12日、元和元年5月、明暦3年9月17日、元禄7年、天保7年7月ほか / 冊子 278~280頁/原整理番号 109
都城臣上原甚左衛門家について、上原宮内左衛門の父・長門守以来の北郷氏への奉公と近世の子孫をたどる系図。父祖は豊州家に仕えて飫肥へ移り、北郷忠親が豊州家を継いだ後に北郷氏へ臣従したと伝え、宮内左衛門は永禄元年三月十九日、北郷時久に従って肝付氏と恒吉宮ヶ浜で戦い死亡し、法名を長阿弥陀とする。宮内左衛門の戦死後、時久の許可で養子となった野崎丹後左衛門入道正金の嫡子は、天正年間に旧地回復の使者として二十八人を率いて飫肥へ赴き、文禄元年には北郷忠虎に従って朝鮮へ出陣した。さらに慶長五年茶園尾陣で没した齊次郎、元和元年に北郷忠能に従い大坂へ出陣した尚保、尚貞・尚盛・尚明・尚時・尚純・尚次・尚侍・尚政・尚常らの出生・没年、法名、婚姻・養子関係を収め、末尾に元禄七年の再撰書出から抄出した略系を天保七年七月に伊地知季安が記したと明記する。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
年月日未詳 / 冊子 557頁
十一月十二日の日記。播州へ向かう者、上方衆の宿泊・酒肴、伊地知民部少輔への職の給付、使者や贈答など、大坂出陣準備期の家中の動きを列記する。