某重物献進目録
五月廿二日 / 冊子 215頁
御系図、朝廷・忠久・道鑑・足利尊氏・北条氏・大友氏関係の古文書、知行目録、鏡・牛王・玉・本尊などの重物を伊地知采女正へ引き渡した入日記。源頼朝の判物は前年の受取り時から見当たらないことも付記する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
13 件 (全巻)/ 1–13件を表示
ページ 1 / 1
五月廿二日 / 冊子 215頁
御系図、朝廷・忠久・道鑑・足利尊氏・北条氏・大友氏関係の古文書、知行目録、鏡・牛王・玉・本尊などの重物を伊地知采女正へ引き渡した入日記。源頼朝の判物は前年の受取り時から見当たらないことも付記する。
年月日未詳 / 冊子 301頁
国分氏伝が、朝鮮出陣前に「自力で五百石相当の軍役を勤めれば、帰朝時に高五百石を与える」と諸士へ約束されたことを記す。国分左京は自力でその軍役を負担して渡海し、出陣前に二百五十石を受けた。帰国後に残額を願い出たが、国分氏が夫満宮の社領八町を領して社領を失わせていることを理由に、既給分の石高で相当と裁定された。
年月日未詳 / 冊子 157~159頁/原整理番号 41
『国分平八郎家系図』と題し、八文字紋を掲げる国分氏の系図。康友は兼宗大納言知国の四男とされ、鹿児島大夫・新田宮・鹿児島藤内・左馬允・大夫判官・薩摩国司などの称を伴い、島津忠久の猶子となった由緒を記す。定友以下の諸系線を展開し、友久は国分左衛門尉を号し、頭注に執印康友三男の鹿児島四郎友家を平野氏祖とする異説を載せる。友成・久成らへ続き、久成は羽島を号した。五代院右衛門友清の年代、五代筑前守が島津立久に仕え京都所司代浦上美濃守則宗から送られた書状、友宗が島津忠国の伊東征伐で功を立て加江田等を与えられたことを記す。友綱・友明は肝付合戦の平房八幡で討死し、友秀は朝鮮番船で討死した。末尾は友昌(蔵人)―友快(喜兵衛)と続き、その子孫を助之進とする。
永仁元年九月晦日 / 冊子 376頁
笠崎の警固番役について、代官鶴丸が三箇月勤仕したことを島津忠宗が確認し、なお履行せよと命じた国分氏文書。
永仁二年七月卅日 / 冊子 377頁
『国分氏文書』。六月から七月まで警固役を勤仕したことを認定し、その旨を執達した文書。本文には署名・宛所がなく、索引では島津忠宗の書として整理され、編者注は国分掃部助殿宛と推定する。
永仁四年十月十六日 / 冊子 380頁
国分掃部助の警固番役が代官によって勤仕されたことを島津忠宗が確認し、引き続き執達するよう命じた国分氏文書。
永仁五年九月晦日 / 冊子 382頁
式部孫五郎の警固番役を代官が勤仕したことを島津忠宗が確認し、引き続き執達するよう命じた国分氏文書。
正安元年十月十五日 / 冊子 393頁
国分掃部助の去秋分の警固番役を代官が勤仕したことを島津忠宗が確認し、引き続き執達するよう命じた国分氏文書。
承久3年7月20日 / 冊子 302頁/原整理番号 119-1
承久三年七月二十日、藤原某(傍注は進士判官代隆邦かとする)が鹿児島藤内馬へ送った仮名書状。伊予攻めに参陣するとの申し出を受けたが、河野入道が降人として参上したため合戦はないと伝え、急ぎ上京して武蔵殿北条泰時・相模殿北条時房に謁見するよう勧める。上京途中に合戦があれば参陣したいとの藤内馬の意向を殊勝とし、左近将が来れば謁見を取り次ぐ旨を申し含める。国分氏に伝わった古写で、『旧記雑録前編一』1294号文書と同一との注記がある。
文治5年11月24日 / 冊子 302頁/原整理番号 119-3
文治五年十一月二十四日、源頼朝の袖判のもと、平盛時が奉じて伊豆藤内へ伝えた御教書。薩摩国鹿児島の藤内康友が頼朝の奥州下向に供奉したのち暇を与えられて帰国を命じられたこと、康友が鹿児島郡司職を以前から相違なく知行していると申したため、その旨を心得るよう命じる。国分氏伝来の古写で、『旧記雑録前編一』247号および『家わけ六』国分文書43号と同一と注記される。
暦応4年8月14日 / 冊子 326~328頁/原整理番号 124
末吉羽島氏に伝来した惟宗氏の系図。聖武天皇から具瞻・正邦・孝言・忠親へ連ねる祖系を掲げ、康友・友成・友尚らの新田宮執印職、国分右衛門尉・左衛門尉などの国分氏、政家の妻で禅師政家の母となった女性を介して市来氏へ移る系線、河上・河原・角・橋口・田口・植松などの支流を記す。友尚については執印職のほか国分寺別当・天満宮沙汰人とする一本があり、家郷は暦応四年八月十四日に平城で討死したとする。人物名・官途・法名・親子関係には『一本』ごとの異名・別系・欠載を多数併記し、末尾は親家・家久・家正・忠家・家善へ続く。
年月日未詳 / 冊子 347~352頁/原整理番号 131
末吉羽島氏に真本があると注記する惟宗姓羽島氏の長大な系図で、聖武天皇から惟宗氏へつなぐ系譜を掲げ、伊賀守・紀中納言(宗大納言)・陰陽頭・能登守などの祖先から、羽島・国分・郡山・神崎等の諸流を系線で整理する。康友が島津豊後前司忠久を養子とし、忠久を源頼朝の子、丹後局を康友の妹とする伝承を載せ、国分寺職・天満宮沙汰人・執印職の相伝、筑前岡元庄への居住や分家を記す。国分豊後守宗友は島津忠国の伊東退治で山東においてたびたび忠節を尽くし、日向国海江田庄八十町・上別府ほかの地頭職と自筆判を与えられたとする。後代には島津伊久への奉公、神崎合戦・郡山・平佐・筑後・肥後隈城等での討死、日向上別府への移住、養子・婚姻・出家・法名を多数記し、中世薩摩の宗教職・所領継承と軍役を一系譜内に集積する。
元亨二年十月廿日 / 冊子 489頁
国分二郎友貞が訴える薩摩国分寺領への追捕・放火・狼藉について、奉行人大保六郎入道契道へ御引付を渡し、訴状副具のとおり明らかにして早く参決するよう命じた国分氏文書。