島津義弘伝
年月日未詳 / 冊子 128頁
島津義弘が真幸院飯野を領して居城とし、永禄六年に鹿児島から移って二十八年間在城したことを記す。飯野で家老・地頭職を務めた五代友慶や、有川・上井・川上・宮原ら家老・使衆を列挙する。
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年月日未詳 / 冊子 128頁
島津義弘が真幸院飯野を領して居城とし、永禄六年に鹿児島から移って二十八年間在城したことを記す。飯野で家老・地頭職を務めた五代友慶や、有川・上井・川上・宮原ら家老・使衆を列挙する。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
年月日未詳 / 冊子 157~159頁/原整理番号 41
『国分平八郎家系図』と題し、八文字紋を掲げる国分氏の系図。康友は兼宗大納言知国の四男とされ、鹿児島大夫・新田宮・鹿児島藤内・左馬允・大夫判官・薩摩国司などの称を伴い、島津忠久の猶子となった由緒を記す。定友以下の諸系線を展開し、友久は国分左衛門尉を号し、頭注に執印康友三男の鹿児島四郎友家を平野氏祖とする異説を載せる。友成・久成らへ続き、久成は羽島を号した。五代院右衛門友清の年代、五代筑前守が島津立久に仕え京都所司代浦上美濃守則宗から送られた書状、友宗が島津忠国の伊東征伐で功を立て加江田等を与えられたことを記す。友綱・友明は肝付合戦の平房八幡で討死し、友秀は朝鮮番船で討死した。末尾は友昌(蔵人)―友快(喜兵衛)と続き、その子孫を助之進とする。